朗読を聴く。

 

徒然草(現代語訳)137段。

桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。
いや、そうとは限らない。 物事の最盛だけを鑑賞する事が全てではないのだ。
例えば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思い焦がれ、あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外の様子を目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。 今にも花ひらきそうな蕾の桜の梢や、桜の花びらが落ちて散り敷いている庭などは、とりわけ見る価値が多い。 作歌の事情を記した詞書も、「花見に出かけたところ、もうすでに花が散ってしまっていて見られなかった」とか、「用事があって花見に出かけず、花を見なかった」などと書いてあるのは、「実際に花を見て」と書くのに、劣っているだろうか。そんなことはない。 確かに、桜が散るのや、月が西に沈むのを名残惜しむ美意識の伝統はよくわかる。 けれども、まるで美というものに無関心な人間に限って「この枝も、あの枝も散ってしまった。盛りを過ぎたから、もう見る価値はない」と、短絡的に決めつけるようだ。

 

ふと思いました。

 

何を成功とするの?

理想の状態?

偉人たちが成し遂げたようなこと?

 

そう言いながらわたしは

『成功』という言葉遊びをしています。

 

そして

成功は

どこまでも完成しないことだと思いました。

 

だからあんなに

次から次へと

新しい成功法則がうまれるんだ。

 

きっと

成功という言葉遊びの中に

『道』があるのでしょう。

 

だったら

成功と言う言葉ではなく

わたしの

『道』をいこう。

たくさんのあまねく『道』の中でね。

 

うん、そう

『わたしの道』だよ。