徳川家康は、大阪城の豊臣氏との緊張が高まる中、
尾張国を防衛上の要地として整備しました。
尾張国の中心であった清須城が手狭で、
五条川に臨む低地にあり水害が多いため、
名古屋(那古野)に新城を築城し、名古屋遷府することを
慶長14年(1609年)11月16日に徳川家康が正式に発令。
翌、慶長15年(1610年)1月14日、将軍徳川秀忠が、
西国の20大名に名古屋城普請を命じました。
名古屋城を築く場所は、
名古屋台地の西北端で、
台地の西と北は高さ10メートルの断崖に守られ、
キジが多く棲む荒地であったそうです。
石垣用の石材は、尾張、美濃、三河、伊勢だけでなく、
遠く讃岐(小豆島)や肥前(唐津)からも
運ばれました。
遠方で切り出された石は、
石船で海路を熱田湊まで運び、
陸路を修羅と呼ぶ木橇に石を載せ、
丸太の上を転がしながら普請場まで
何百、何千もの人夫が引いたといわれます。
加藤清正は巨石の運搬の時に、
巨石を飾り、派手に着飾った小姓らと石の上に立ち、
日の丸の軍扇をあおって人夫を鼓舞したそうです。
そんな名古屋築城にかかわる普請方に、
周辺に棲むキジの肉を入れた
平めんが振舞われたと言われています。
このめんは「キジめん」と呼ばれて大人気となり、
それが名古屋市中に広まって、
「きしめん」になったとも言われています。
「きしめん」は、薄いので手早く茹で上がり、
幅広なので出汁がおいしく染みて、
普請方をずいぶん力づけたことでしょう。
こんなところに、
「きしめん」の合理性が生かされたのですね。
尾張国を防衛上の要地として整備しました。
尾張国の中心であった清須城が手狭で、
五条川に臨む低地にあり水害が多いため、
名古屋(那古野)に新城を築城し、名古屋遷府することを
慶長14年(1609年)11月16日に徳川家康が正式に発令。
翌、慶長15年(1610年)1月14日、将軍徳川秀忠が、
西国の20大名に名古屋城普請を命じました。
名古屋城を築く場所は、
名古屋台地の西北端で、
台地の西と北は高さ10メートルの断崖に守られ、
キジが多く棲む荒地であったそうです。
石垣用の石材は、尾張、美濃、三河、伊勢だけでなく、
遠く讃岐(小豆島)や肥前(唐津)からも
運ばれました。
遠方で切り出された石は、
石船で海路を熱田湊まで運び、
陸路を修羅と呼ぶ木橇に石を載せ、
丸太の上を転がしながら普請場まで
何百、何千もの人夫が引いたといわれます。
加藤清正は巨石の運搬の時に、
巨石を飾り、派手に着飾った小姓らと石の上に立ち、
日の丸の軍扇をあおって人夫を鼓舞したそうです。
そんな名古屋築城にかかわる普請方に、
周辺に棲むキジの肉を入れた
平めんが振舞われたと言われています。
このめんは「キジめん」と呼ばれて大人気となり、
それが名古屋市中に広まって、
「きしめん」になったとも言われています。
「きしめん」は、薄いので手早く茹で上がり、
幅広なので出汁がおいしく染みて、
普請方をずいぶん力づけたことでしょう。
こんなところに、
「きしめん」の合理性が生かされたのですね。