以前の日本では、「疑う」は失礼極まらない行為とされていた。
つまり「無条件に信用すること」が礼儀正しい行為とされていたようなところがあった。
私は、ある年齢まで学校で学んだこと(情報)は、すべて正しいと思っていた。
教師の指導に疑問を持ち始めたのは、小学5年生の時だった。
しかし、その時の私は勇気を持ってその考えに反論できなかった。
唯々、不信感というより疑問を抱えたままで過ごした。それも長い間である。
特に「明治維新」については、わからないことが多かった。
あるとき日本びいきの外国の友人と話す機会に「明治維新」の話題があり、その理解の違いに、大いに驚いてしまった。
その友人が見ていたのは「明治維新の時のお金の流れ」だったのです。
私たち日本人は「お金の話をするのは卑しい」と思いこまされていたのではと思う。
お金の話を追ってみると、「明治維新」が不思議なくらい見えてくるようになった。
そして、これまでわからなかった多くの疑問が、氷塊するように無くなっていた。
米国の大統領選の話題は、どうでしょう?
多くの日本人は、「バイデン勝利で解決済」となっていることに、私は驚いている。
その理由を聞いてみると、「マスコミがそう言ってるじゃない。もしかしたら、あなたは陰謀論者?」
というような返事まで帰ってくる。
もうここまでくると、なんとも言いようがない。
「疑いを捨てる」ということは、「すべてのことを鵜呑みする」ようで私はとても怖い。