人の脳はやはり不思議です。調べれば調べるほどに解が遠ざかってしまうことがあるのです。
もしかしたら、私たちは脳の数パーセントしか分かっていないのかもしれません。つまり脳の理解すべき全体像が分からないということです。
人の脳は量子コンピュータみたいな動きをすることがあります。
好き嫌いについて、考えてみると・・・
「あの人は好き?」と聞くと、
人の脳は「好きよ・・」とも「嫌いよ」とも答えることが出来るのです。
もちろん言い訳的に「時と場合による・・・」と付け加えることも多いのです。
「月の裏側がどんな風になっているのか、君は知っているか?」と問われたら何と答えますか
「知らないよ・・・そんなこと・・・」と普通は答えます。
もしかしたら、受験生なら
「知りませんでした。これからチャント勉強します」
と答えるかもしれません。
脳は何を「余計なこと」と判断しているのでしょうか。
脳の本来の機能から考えてみると、「余計なこと」というような判断はしません。
つまりこれは人が作り出したものなのです。人、つまり前頭葉と考えることもできます。
この判断には、「余計なこと」と「余計でない事:つまり必要なこと」の区別が存在しているのです。Aさんの場合と、Bさんの場合でも、「余計なこと、必要なこと」は異なる場合は少なくないのです。つまりこれは認識の世界ですね。
人の古い脳には「善悪の判断が存在しません」つまり生きるために必要なことは、「やる」「やらない:できない」しかないのです。よくよく考えてみると、「善・悪」とは人が作ったものです。古い脳はこの「善悪」を判断できない、つまり「善」も「悪」も認識できないのです。
私たちの脳は、古い脳を新しい脳が覆っています。古い脳は脳の中心部に存在します。これに対して新しい脳、つまり前頭葉等は脳(つまり頭)の表面に近い部分に存在しています。手足の制御だけでなく、視聴覚に至っても、古い脳を経由して新しい脳に到達しているのです。
反射という面から考えてみると、最適な構造なのです。例えば、目の瞬き等は目を保護する上で重要な機能です。何か障害物が飛んできたとき、瞬間的に目は閉じられます。この制御は目だけでなく、古い脳だけで実行されているのです。つまり新しい脳、前頭葉まで判断を仰ぐ必要はないのです。そのようにすると反応が遅れて、目が損傷を受けることだってあるからです。
目に関係する脳のエリア(野)は後頭部に位置しています。後頭部は前頭部に比べて比較的安全と考えられるからです。人は戦う場合、前面で対応します。つまり損傷を受ける可能性が高いのは、後頭部ではなく前頭部の方が多いからです。
少し前までは、リンパ系の管は脳には存在しないものとされていました。しかし最近の研究で、脳にもリンパ系が存在することが分かってきたのです。これは脳のいろいろな病気を解明する上で重要なことなのです。リンパ系は癌に関しても重要なものなのです。
最近になって、このような反射系は常に脳の制御だけでなく、その感覚部位や認識部位によって瞬時に行われていることが分かってきました。これは合理的なものです。最適化とも表現できます。
数日前、カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳の「日の名残り」がアマゾンから到着しました。
読み始めると、確かに読みやすいのです。全く違和感がありません。これは土屋政雄さんの訳のすばらしさを物語っているとも言われています。
カズオ・イシグロさんは長崎生まれです。同郷のよしみみたいなものもあるのかもしれません。
本の感想については、後日書いてみようと考えています。
次に読みたい本は「わたしを離さないで」です。久しぶりワクワクしています。
村上春樹さんの本は、あまり読んだことがありません。波長が合わないというか、なんか読もうとしないのです。街の本屋さんで手にした本は表紙に猫は登場しないものの、読んでいくと猫が登場してくる場合が多いのです(笑) 猫嫌いはうちのかみさんです。
猫の方も分かっているようで、よそのお家にお邪魔したとき、飼猫はかみさんを避けて私の方に寄ってきます。これにはかみさんも苦笑いです。最初は遠慮していた猫も知らない間に私の膝の上に乗っかって休憩しているのです。この違いはしょうがないですね。
「知らなくても心配する必要ないも、知っていて心配が必要な場合がある」
私たちの世界には知らなくてもよいことがいっぱいありますね。
知っておく必要のあるものは少ないのではと思っています。
余計な心配をする人は、余計なものを背負いこんでしまうからともいわれています。
確かにそうかもしれません。
「ほどほどに・・・」
「何ごとも程々に」がよいのかもしれません。