脳に興味を持ったのはいつのころからだろう。

 

幼い頃、私の脳は胸にあった。つまりそれは心臓を指すのかもしれない。

心臓が動いていないと、人は生きていけない。そのことを知っていた私が考えた理解の仕方です。

 

29歳のころ、パニック症に襲われ、初めて頭の中の脳に意識が向いた。

その日はいつもの私とは全く異なったものだったようである。手にはナイフを持ち、研究室に閉じこもっていた。強い被害妄想に襲われたのかもしれない。その日の記憶もあいまいで、あとからの友人の話も本当に信じられなかった。「別人のようだった」と彼は話してくれた。

 

私は幼い頃から、普通ではなかったのかもしれない。今から考えると妄想の中に居たように感じる。しかし、一つだけ意識できたことがある。目の前の人の気持ちが手に取るように分かった。

それは家族だけでなく、初めての人でも同じだった。

 

そのころの私には、善悪の判断しか対象がなかった。つまり「良い人」「悪い人」を見分けたのです。それには母も驚いていた。訪ねてきたある人を私は「悪い人」と判断して、母に伝えた。

母は怪訝そうな顔をしながらも、相手の言うとおりにはしなかった。正解だった。

 

私には、善悪を判断する明確なプロセスは全くなかった。あるのは結論の「良い人」「悪い人」だけである。それも私にとってはどうでもいいことだった。しばらくすると、そんな能力もいつの間にか消えてしまった。

 

こちらに来る前、長崎に住んでいた。私にとってはのんびりとした良い時代だったが、勉強は全くという程、しなかった。JAZZ喫茶にたむろし、暇なときは、長崎の市内を徘徊していた。

長崎市内は坂が多く、自転車は不便だった。だから、歩く・・・歩く・・・また歩く・・・である。

 

歩いていると、いろいろな人たちに出会った。郵便配達の人、保険の外交員、幼稚園の子供達、行商のおばさんたち、医者、警察官、消防士、牧師、お坊さん、看護婦さん、観光客、そして修道女・・・暇な私は、そんな人たちの顔をしっかり見ていた。

 

長崎で美人と言われる人たちは、中肉中背で面長の顔、優しい目、やや細い手足・・・明らかに異国の血が混じっていると思わせる人も少なくなかった。友人にはハーフと言われる人たちは数人いたが、変な意識は全くなかった。でも雰囲気は異なっていた。どことなく寂しいような顔に感じられた。

 

長崎での交通機関はバスと電車。

 

電車は3系統しかなく、乗り継ぎも簡単だった。当時も観光客は主に電車を利用していた。

長崎の人は暇な人が多いのかもしれない。兎に角、観光客には優しかった。

道案内を頼まれて、半日近く街中を案内しているような人もいた。もちろん私もその中の一人である。

 

広島から来たというその女の子は、諏訪神社への道案内を頼まれた。

お昼になって「ちゃんぽん」を食べてみたいということで、知り合いのお店を紹介した。

暇な私は、お昼も付き合った。

 

「長崎の人は、あなたみたいに優しい人ばかりなのですか」と尋ねられて、返答に困った。

別れるとき、彼女は手帳の一部を破いて、名前と住所と電話番号をかいたものを手渡してくれた。

「広島に来る機会があつたら、電話して‥今度は私が広島を案内するから」と笑っていた。

 

そして、名前の由来について話してくれた。「小熊百合」さん。姓に熊の文字があり、厳めしいので、父が「百合」という優しい名前にした、という話だった。彼女は大学卒業の記念で長崎に来ていた。

 

そして二日前の「精霊流し」の話になった。

「驚いたのよ。もっと静かな精霊流しを想像していたのよ・・・」

「大きな精霊船、それに鳴りやむことのない沢山の爆竹、耳が痛くなったわ」

「小さな精霊船、お子さんが亡くなったのね、とても悲しいことね。・・・」

「小さな精霊船、お家族の人達が担いでましたね・・・」彼女は悲しそうな目をしていた。

「次の日のお昼、さらに驚いたわ。あの沢山の爆竹のゴミ、どこにもないのよ・・・」

彼女は本当に驚いていた。

 

色々な人のとの出会いは、私を成長させてくれた。

そして私は、幼い頃のある記憶を思い出していた。

 

小学生の5年生になったばかりの時だった。義理の兄が船で釣りに連れて行ってくれた。

岸壁から小舟に乗り移るとき、それは起きた。

少し波の荒い日だったので、小舟は揺れていた。

岸壁と小舟の間が開いたり、狭まったりしていたのです。

そのため、私は船に乗ることを躊躇していた。

「こう、乗るの、乗らないの。ハッキリしないと海に落ちてしまうよ・・」

と義理の兄の声にせかされた。 私は躊躇することをやめて、岸壁から小舟に飛び乗った。

「こう、どんな時も、心を決めてから実行するんだよ」

 

私は、この言葉の意味をかなり後になったから理解した。

義理の兄は、お酒飲みだったけど、普段は優しかった。

そして、小学校の音楽の先生でもあった。

 

大学生の時に出会った古物屋の親爺さんは、いろいろなことを教えてくれた。

彼は私に、モノの見方、考え方、だけでなく、人の見方、考え方も教えてくれていた。

「お金持ちはお金を持っている人、優しい人は優しさを持っている人・・・・・」

親爺さんの言葉には説得力があった。

 

「俺は、どっちが偉いなんて、言わないよ・・・」

「こう、あんたは、どっちが偉いかと考えただろう・・」

当時の私の考えは、親爺さんから見透かされていたようだ。

「モノには存在の理由がある。人に存在に理由がないわけはないだろう・・・」

当時の私には、難解な言葉だった。

 

「こう、魚屋の野菜と、八百屋の魚では、どっちを買う?」

私は考え込んでしまった。

「こう、必要なものを買うんだよ。お店はどちらでもいいんだよ・・・」と親爺さんは笑っていた。

 

ある日、親爺さんは二つのお茶碗を示して、

「こう、どちらが高く売れると思うか・・・」

二つのお茶碗は、どちらも少し壊れていた。

違いは、一つのお茶碗は簡単に修理したもの、もう一つは修理もしていなかった。壊れていなければ、どちらも高価なお茶碗だった。

 

私は躊躇なく、修理した方のお茶碗を示した。

「こう、本当にそう思うか・・・」と親爺さんはきた。

私は返答できなかった。

 

 

「高価なお茶碗になればなるほど、中途半端な修理をしたものより、何もしないお茶碗の方が高いんだよ。どうしてかわかるか・・・よく考えればわかるんだよ・・・」

 

もちろん、私はそれを理解するにかなりの時間がかかった。

 

今日は、題名の前半のみでした。