今日はバスルームのシャワーの跳ね水よけの大きなガラス板のことについて考えてみました。フランスもイタリアもイギリスも同じようなバスルームでした。

 

これは日本人の私から見ると、とても危険な感じがしました。このガラス板は左右に動きます。どちらかに動かすとすぐに大理石の洗面台のぶっつかります。強く動かして洗面台のぶっつかると当然ように板ガラスは粉々に壊れてしまいます。日本ではとても考えられない構造なのです。以前、ツアー客の一人がシャワーのとき、この板ガラスに寄っかかって壊してしまったのです。その時の弁償代金はかなり高かったように思います。

 

日本のホテル場合、洗面台の板ガラスが当たる部分にはゴムなどのクッションが設置されています。日本の場合、やや高級なホテルがこの方式を採用しています。しかし日本のビジネスホテルではほとんどがシャワーの跳ね水よけの防水カーテンです。もちろん壊れる心配はありません。

 

私は、このような構造の理由を理解することもできませんでした。パリの友人は、「ガラスの感性の問題だよ・・・」と言います。

 

「ガラスの感性?」

 

つまり彼の説明では「アフォアダンス」というのです。

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことです。これはアメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語です。生態光学、生態心理学の基底的概念である「与える、提供する」という意味の英語 afford から造られたものです。

 

とは言っても何のこと言っているのかよくわかりません。人が作ったものが、人と対面したときに、作ったもの(例えば形成物や環境)が人に与える意味のことをさしています。つまり環境は常に人に影響を与えていると考えてもよいでしょう。

 

ガラスは壊れると危険な破片になってしまうことを人は経験的に知っています。つまりガラスを見ただけで、「危険だ」と潜在的に感じてしまうのです。さらにガラスの構造物は、その状態からもより強い影響を人に与えしまうのです。

 

人には予見力というものがあります。これは先を見通す能力としてとらえることができます。

つまりガラスの構造物は、その構造の状態が人に大きな影響を与えてしまうのです。動かないガラス、つまり固定化したガラス面からは危険という感じはあまりしません。動くような構造のものは、何かにぶっつかりそうな構造の時、「危険」という印象を人に強く与えてしまうのです。

 

人は「危険」と感じた時、「注意しよう・・・」という意識が働きます。

「これがガラスの感性」と表現したものです。

もちろん、乱暴なこじつけや表現であることは理解しています。

 

 

ここでハサミや包丁について考えてみましょう。人は持てる感性の違いよっていろいろな感じ方をします。置いているハサミが怖いと感じる人、逆に使っているハサミが怖いという人もいるのです。人が手にしているときが一番怖いという人もいます。

 

人は危なっかしい使い方をしている人と包丁を見ると、お尻がムズムズすると感じる人が多いのです。これは大昔の名残ともいえるものです。つまり人の恐怖の反応の一つでもあるのです。この反応は人に緊張を与えるとともに、あきらめの反応も示します。体が恐怖で動かなくなってしまうのです。この反応は現代人でも起きます。

 

J・J・ギブソンは、私たちに「人は環境から多くの影響を受けている」ということを知らせたかったのでは、と考えることができます。もちろん、そのものであったり、そのものを取り巻く構造や環境であったりもします。

 

「危険を感じさせない」というのは、一面良いことのように思えるのですが、危険に対する対応を誤ってしまう原因であるともいえるのです。つまり「注意しない」という行動によって現れます。

 

私の年代の人たちは、常に小刀みたいなものを持っていました。山でも海でも、山でも、その小刀は重宝していたのです。つまり生活の必需品でもあったのです。もちろん初めに小刀を手にしたとき、怖いという感じはありません。怖いと感じるのは、誤って自分の手を傷つけてしまった時からなのです。赤い血と痛さを感じた時、初めて恐怖みたいなものを感じるです。でもこの小刀の経験はやはり重要なものだったのです。学んだのは「手加減」なのです。「どうすれば怪我せずに小刀使うことができるのか」ということを学んだのです。

 

今の教育は「危険から遠ざける」という風に感じます。そのことによって失なわれる感性も多いのです。その大きな損失は「手加減ができない」というものです。喧嘩などで、相手に強いダメージを与えてしまうことも多いのです。

 

J・J・ギブソンは、今になって再び私たちに警告を与えたのです。あふれる情報もその一つです。これらの情報が私たちに潜在的なダメージを与えることに一部の人たちが気づき始めたのです。私たちは、情報の量と質を与えられたのに、感性を失いつつあったのです。いや、失っているという人もいます。

 

大きな損失は、人々の暴走です。際限なき欲の追求、攻撃・・・結果に無関心になって自分を保護する手段まで手に入れてしまったのです。つまり自己防衛本能の増大です。

 

今 人々は将来の方向性を失いつつあるのです。