このブログの記事も601番目となりました。でもこれまで百番単位で意識したことは一度もありませんでしたが、今回は別でした。

5年ほど前に「不思議な脳の崩壊」を書きました。このとき注意したのは、その基本的な知識である「ゲシュタルト崩壊」と言う言葉を使わないことでした。

 

既存の知識を基に文章を書き始めると、内容が既存の知識の枠の中に閉じ込められてしまうという懸念を感じたからでした。するとゲシュタルト崩壊の新しい側面が見えてきたのです。しかしその考えをまとめるのに5年もかかってしまいました。

 

自己制御の崩壊は、人の不思議な側面を表しています。でもなぜそのようになるのかについては、すべての人が納得できるようなものはなかなか見つからないのです。知識を獲得する時でさえ、実は自己制御の崩壊現象が起きているからなのです。

 

制御の周りに散らばっている文字は、最適、過剰、連続、抑制、非(最適)、・・・等があります。

しかし突如として、「甘やかし」みたいなものが乱入してくるのです。それは機械ではなく人を意識させるものです。「甘え」「甘える」「甘えられない」・・・・「甘やかし」とつながっています。

 

機械は常に最適な制御を求められるのが普通です。例えば車の場合、燃費、排出ガス、走行距離、乗り心地、運転のしやすさ、事故対策、安全、スピード、・・・と最適なものがもとめられているのです。しかし人に関していえば、常に最適と言うことはあまり求められていません。

 

最適制御で生活している人は、求められているようでそうではないのです。あまり最適でない面を兼ね備えた人に魅力を感じるようなのです。恋愛や結婚の相手を探す場合においてもこのような最適制御が前提ではないのです。どうしてなんでしょうか。例えば「人は常に最適制御をもとめている訳ではない・・・」といえるのでしようか。「あやふや・・・?」

 

今まで順調に仕事をしてきた人が、突然に崩れてしまい、仕事の評価も極端に低下してしまうことがあります。しかししばらくするとまた元の状態に戻って順調に仕事しています。本人は途中の不調をあまり気にしていません。どうしてなのでしょうか。

 

つまり人は常に最適な状態を保ってはいないのです。「脳はなぜ最適な状態を求めないのでしょうか?」完璧主義者は「常に最適な状態」を求めているのかと思っていたのですが、彼らでさえ、そうではないのです。「常に最適な状態は疲れる・・・」というのです。

 

ある家庭の夕食時のこと

奥さんが炊き立てのごはんをごはん茶碗に盛ってご主人に渡しました。

ご主人「おい、多いじゃないか、俺こんなに食べない、減らしてくれ・・・」

奥さんは「はいはい」といってごはんの大部分を炊飯器に戻し、

「はい、どうぞ」と言って渡しました。

ご主人「おい、少ないじゃないか、俺を飢えさせるつもりか」と言ってます。

 

奥さんの行為は、最適制御を超えて過剰制御に入ってしまったのです。

この行為の裏側には、「あてつけ」「いやがらせ」「反朴」「抵抗」「いじけ」・・・・等が渦巻いているのです。

 

つまりこれも自己制御の崩壊 現象の一つなのです。でもこれには裏側もありますね。

奥さんは日ごろの不満や鬱憤を晴らしているともいえるのです。ご主人はそれに気づいていません。この後はどうなったのでしようか。

 

自己制御の崩壊 現象は、他人との関わり合いの中だけで生じるわけではありません。

自分という一人の人間の中でも起きてしまうのです。極端な場合、自傷行為となって現れることもあります。勿論単なる「いじけ」で終わってしまうことも少なくないですね。

 

人が最適な状態を常に意識し保っている訳ではないことは、どのように解釈したらいいのでしょうか。

例えば、人は8割の最適制御と2割程度の非最適制御で生活し満足している、と表現してもいいのかもしれません。この割合は多分人によって異なるのでしょう。

 

2割程度の非最適制御を「甘やかし」と表現する人もいます。つまり自分に対する甘やかしという訳です。でもどうしてこのような事が起きるのでしょうか。人の高度な判断と制御なのでしょうか。人によって評価も難しいことから、なんとも言えません。

 

ミスの存在を指摘する人もいます。人の判断や行為においては、常にミスや失敗がつきものです。このミスや失敗を吸収するのが、「甘やかし」つまり2割程度の非最適制御と考えることもできます。これはいい加減な判断なのでしょうか。そうでもないように思います。

 

学問や研究では、仮説によって多くの事例を説明しようとします。その代表的なものが仮説検証法というものです。大学院生の多くがこの方法で論文を書いてきたと思います。しかしこの仮説検証法はすべてものに馴染むものではないのです。特に人に関われる問題や課題の解決のためには、最適ともいえない場合があるからです。

 

この仮説検証法に対して、「メタボローム解析」というものがあります。

 

メタボローム解析は、例えば生体内にある代謝物を網羅的に解析する手法で、集めた膨大なデータから仮説を導き出す訳です。従来のように、仮説を立て、仮説に基づくデータを集め、理論立てていく通常の研究とは根本的に手法が異なります。

 

「メタボローム解析」の登場は、大量の計算処理や情報処理が身近にできるようになった背景があります。この延長線上にはBigDataの世界が存在しています。二世代のAI(人工知能)の実力も「メタボローム解析」の可能性を広げています。

 

最近活躍しているロボットが人間味を帯びていると評価されているのは、最適制御ではなく、一部に非最適制御を採用してきたからとも言われているのです。つまりロボットもミスを含み、人のミスを認容する能力が出来てきたからとも言われているのです。

 


一部に非最適制御は、お世辞、ダシャレ、言い訳、反省、素直さ、やさしさ、頑固さ・・・・等まで演出できるようになったのです。

姿や形はロボットですが、様子(身振り手振り)や発言のイントネーション等は人との親和性を高めているとも言われているのです。

 

つまりロボットがいい加減な人を認め、対応できるように進歩したのです。これには、二世代のAI(人工知能)の性能の向上が寄与しているのです。

近いうちに、応募者に対応するのは人の面接官ではなく、ロボットの面接官になるでしょう。面接官は、自分に近い応募者の得点が高くなることが分かっています。この弊害がこのロボットの面接官にはないのです。

 

人における自己制御の崩壊 現象は、なんと人の発展に欠かせないものだったのです。

これは私にとっても大きな驚きでした。


そんなこともあるのですね。