る小冊子に「記憶は、経験に貼りついた感覚である」と書かれていた。 「その”感覚”に耳を澄まさなければ、僕らは人生を失ってしまう」とも書かれていた。

少し前の私なら、この言葉の重要性を認識せずに見過ごしてしまったでしょう。

私達は、記憶について、偏った見方しかしていなかったように思う。それはあたかもメモリーに記憶された平面的なものであったのです。そこには人間の感覚の連関性はみじんもありませんでした。写真のように、動画のように、それはメモリーの断片でもあったのです。

しかし私はこの記憶の考え方に違和感をもっていたのです。何回も再生されるものは、特別な要素を持っていたのです。それは感動であったり、感情であったり、雰囲気であったりもしたからです。そんな記憶は何回再生されても色あせることはありませんでした。それどころか、再生される毎に新しい場面が追加されていることに気づいたからです。

正にその感覚が記憶されていたのです。感動が蘇っていたのです。その時の感情が思い出されていたのです。同様に色、匂い、温度、触覚までもがその対象だったのです。逆に感動のないものは捨て去られ、再生の機会を失っていました。

探し求めた時、それは正に感覚にとして認識されていたのです。記憶が再生された時、その時の感情が温存されていたのです。私はそのことの重大性を認識していませんでした。それはあたかもモノクロの動画がカラーとなって再生されたのと同じでした。

私の場合、それは幼稚園のころまで遡ります。しかし1,2歳の記憶はありません。人によっては胎内での記憶を保持している人達もいます。以前は「そんなことはない」と否定していたのですが、最近はその可能性を否定できなくなりました。

「記憶は、経験に貼りついた感覚である」これが今リハビリの世界で重要なことばとなっているのです。カルロ・ペルフェッティの提唱した認知運動療法はここ十年程の間に大きく変容しようとしているのです。でもこれは後退ではなく勇気ある前進でもあるのです。

脳は感覚に対して強い連動性を持っています。その連動性はスクラムを組んだラグビーチームのように強固で頑丈なものでした。しかし、障害等によって脳の機能が失われた時、糸の切れた凧のように制御できなくなってしまうのです。このような状態で、麻痺は起きてしまいます。どんなに糸を手繰り寄せても、凧は制御できません。

残された糸は逆に治療の邪魔となっていたのです。視覚は残された糸を有るものとして認識します。つまり切れた糸に執着してしまうのです。カルロ・ペルフェッティの提唱した認知運動療法は、新しい糸を形成することになるのです。それは私達の既存の考えを打破するものでした。

言葉によってその糸を作り上げるのです。最初は想像の糸であっても、最後には現実の糸となって患者さんの麻痺を解消してしまうのです。従来のリハビリを経験している人達にとっては夢みたいな話なのです。しかし現実にこの認知運動療法は成果を上げて来ているのです。現在問題となっているのは時間の問題です。

治療に多くの時間と手間が必要なのです。今の日本の看護体制ではこれらの治療のを十分に維持することができません。現実には大きな問題でもあるのです。よく考えてみると、私達は生まれてきてから、色々な運動能力を獲得するのですが、それには多くの時間がかかっているのです。それを考えるなら、リハビリに時間がかかることは納得できます。

カルロ・ペルフェッティの提唱した認知運動療法では、視覚を遮断し、ことばによって新しい神経回路を形成します。リハビリのツールは言葉なのです。つまり認知運動療法では脳のことばの領域が正常であることが求められます。赤ちゃんと違い、比較的短期間にリハビリの成果が表れるのは、言葉による想起という能力があるからです。

以下はマザーテレサの言葉です。

思いやりのある行為への最も確かな近道は、

言葉を使うことです。ただし、

他人への良いことのために使いましょう。

もしあなたが、

人のことを良く考えるならば、

人についても良く話すようになるでしょう。

言葉の暴力はとても恐ろしいものです。

どんなナイフよりも鋭く人を傷つけます。

言葉によって傷つき生まれた悲痛な苦しみは、

神の恵み以外には、癒すことができません。

言葉の重要性と影響を私達に諭しているのです。

イタリア旅行の時、感じたことがありました。それは言葉です。

それは幼い時の怪我の経験に遡ります。「痛い痛い飛んで行けー・・・」

この言葉は当時の素直な私には効果的でした。痛いのが本当になくなったからです。

擦り傷で血が出ているにも関わらず、母親は水で流して丁寧に洗っただけでした。

そしてあることに気づいたのです。怪我した時、近くに母がいなくて、自分一人で

「痛い痛い飛んで行けー・・・」とやったのですが、収まるどころか、痛みがひどくなったのです。この時、母親のことばの威力を知ったのです。

そして大きくなってからの経験は、痛みに対する自分の認識との関係でした。何かに手足をぶっつけた時、「痛い」と思ってしまうと、痛みが減らないのです。逆に「痛くない」と思うと、痛みはなくなっていたのです。勿論、大きな怪我の場合は少し異なります。

助手時代、寒い冬の夜に遊びまわっていました。お酒もかなり飲んでいたことから、お店から出た時に貧血を起こし倒れこんでしまいました。コンクリートの小さな橋に額をぶっつけて顔中が血だらけでした。お店の人が気づいて、タクシーで近くの救急病院に運んでもらいました。

夜中の一時ごろでしたが、中年の外科医は「お酒飲んでんだろ・・・麻酔掛けずに縫うからね、・・・少々痛いけど我慢しな・・・」とぶっきらぼうに言われました。私は「はい」と返事するのが精一杯でした。患部を看護婦さんが洗い、外科医はそのまま私の額を縫い始めました。手術針が皮膚を通る感じと音が聞こえるのです。でも不思議と耐え難い痛みではありませんでした。それは恐ろしい音でした(笑)

「おい、丁度13針縫ったから、これで大丈夫だよ」

「お酒飲むのも、程々にしとけよ」と笑って私の顔を覗き込みました。

「先生、今日は入院ですか」と質問したところ

「おいおい、こんなんで入院する人はいないよ。帰っていいよ」と言われました。

一週間後、お昼前に病院に行きました。同じ先生が出てきて「抜糸」を始めました。

「やっぱり、麻酔をかけん方が治りが早いな・・・」

「おい、若いの、時々この部分を手で触ってなでるんだよ・・・

「そうすると傷跡はきれいになるから・・・忘れんなよ・・・

と付け加えました。して治療が終わったら

「もう来んでいいぞ、お酒は程々にしとけよ」

と言って次の患者さんの治療を始めていました。

確かにあれだけの傷にしては治りが速かったように思います。

包帯でぐるぐる巻いていた頭は、長めのガーゼと絆創膏だけになっていました。

看護婦さんに処置してもらっている間、あの先生と患者さんとの話声が聞こえていました。

「治ると思わないといかんよ。口に出して言うんだよ。治る治るって・・・」

「そうすると早く治るんだよ。怪我を治すのも気持ちの持ちようなんだよ・・・」

30年以上の前の話ですが、思い出したのです。それも鮮明に・・・怪我という普通でない状況での記憶だったからもしれないと思ったのです。

「記憶は、経験に貼りついた感覚である」と言う言葉が再び想起したのです。

ミラノに到着した時、ヴェネト州サントルソにあるヴィラ・ミアーリ認知神経リハビリテーションセンターに伺う計画を立てたのですが、日程の関係で足を伸ばすことができませんでした。ミラノのホテル着いたのが夜の9時過ぎでした。ホテルも2泊しか予約していませんでした。

ミラノからベローナ経由でフィレンチェの向かうバスの中で考えました。2時間ごとの休憩を挟みながら、6,7時間はかかったように感じました。実際はもっと長かったのかもしれません。言葉の影響と言うか、力、つまり能力について見直す必要があるのではと思い始めていたのです。

鏡


それは脳に障害がある患者さんだけでなく、脳機能が正常に人においても、何らかの影響があるという確信にも近い思いが出てきたのです。これまであまり関係はないと思っていたBM(ボディマッピング)にも強い関連があるのではと考え始めたのです。


私の脳はこの時、白いキャンバスが広げられていたのです。こんなに広いキャンバスを意識したのは初めてでした。そして中央に出現したのは大きな鏡でした。ふわふわと浮かんだような状態の大きな鏡は、私の方に向いていました。しかしその鏡には私が写っていませんでした。

私が外の景色を見て「あっ」と叫んだ時、その声は私自身ではなく、脳の中の大きな鏡の中から聞こえてきたのです。少し遅れて聞こえてきたのは確かに私の声でした。同時に色が見えたのです。それは赤や黄色のようでした。不思議な感覚でした。