戦争で兄弟を亡くした父は一度だけそのことを話してくれたことがあった。父は長男であり、家長として生きのびる必要はあったものの、兄弟の死は深刻に受け止めていた。戦死によって残された家族を一族として守った。そのため離島にあった我が家は18人の大家族にまで膨れ上がった事もあった。

裕福であった戦前の暮らしは戦争によって吹き飛んでしまった。父は戦前は上海や香港に逗留し、諸外国の人達と交流があった。その時の話は戦後暇になった父から聞いた。英国人が連れて来たというインド人の魔術師みたいな人達との交流もあった。当時、上海や香港は多様な文化が混じり合った地域でもあった。

あの時、「世界観は一人の人間の生死(一生)から離れてはいけない」と父は私に問いかけた。当時私はその意味を十分理解はしないまま頷いていた。この言葉は私のとって現在に至るまで謎に近かった。それでも私は当時、世界は個人から始まり、家族、村、町、市、県、・・・国、そして世界へと広がってることは認識していた。

私達子供は両親から大事に育てられた。大きくなるほどに親の愛情が増しているように思った。でも若い時はそれが、「うるさい」とか「うっとおしい」と感じることもあった。しかし自分に子供達を育てる時になって、やっとその意味が分かるようになった。

父は戦争に対して激しく憤っていた。父がもっと過激な人間なら牢屋の中だったのではと思っている。戦後はVOAの放送をよく聞いていた。私はそのおかげで軽音楽、JAZZの中で育った。離島の田舎に引っ込んだ時、父は仏教と俳句の中に生きがいを見出したようだった。

戦後の私の家族は、母はお寺のお参り、父は月1回の俳句会、私を含め兄や姉達も日曜学校に通った。誰しもが貧しかった為、私の家族だけが貧しいとは思わなかった。それでも離島での南国の冬は風が強く、おんぼろの家屋を通り抜ける隙間風はかなり冷たかった。

逆に夏は天国みたいなものだった。真夏の何日間は猛暑であるが、それを通り過ぎると快適な生活が送れた。必要な時は魚を釣りに、必要な時は貝類を取りに・・・必要な時は山に自然薯を取りに・・と遊びと生活とが密着した日々を過ごした。それに刺激のない日常は退屈で、けだるいものだった。

小学生になったある日、父は私を近くのカソリック系の養育院に連れて行った。私はその時、初めて外国人の女の人に遭った。米国から来た若いシスターできれいな青い目をしていた。家の中にあった洋人形の目と同じだと思った。露出していた肌は細かな白いと云うか黄金色の産毛で覆われていた。本当にきれいな人と思った。「本当にこんなにきれいな人が居るんだ」と驚いたのだった。

養育院の子供達はいろいろだった。日本人だけでなく、四分の一は外人との混血児だった。私は同じぐらい歳頃の子供達と遊んだ。そんな子供達に遭ったのも初めてだった。外人と混血児と言う言葉を覚えた。不思議なことにそんな子供達にはすべて日本名が付けられていた。話してみたら日本語が通じた。と言うより、こちらの言葉だった。私はこのことにすごく安心した。

父が私をここに連れて来たのには理由があった。小学校に入る直前に妹が疫痢で亡くなったことから一人で遊ぶことが多くなったことを心配したことからだった。父はそのことから私に愛情を注いでくれたのではと思うようになった。妹の分まで可愛がってもらったようである。

戦後、田舎の離島に移り住んだ時、父は写真屋とは言ってもかなり暇だった。私とそんな父は縁側でよく昼寝していた。その間、しっかりものの母が一生懸命に働いていた。それでも父は時々島内の町や村に撮影に出かけていた。そして泊まりがけの撮影の時もあった。結婚式などのお祝い事の時は、自転車に料理を積んで帰って来た。それは当時としては最高の料理だった。

本棚には本が少なかったものの、父はよく本を読んでいた。そして新しいものに興味を示した。電話が出始めると電話を・・・、洗濯機、ガスコンロ、ラジオ、テープレコーダーにテレビ、そしてカラーテレビにオーディオ装置・・・バイク、サングラス、カメラ・・・

父はある日唐突に「もし・・・ならば・・・・である」という考え方を教えてくれた。今までの自分の考えは「・・・は・・・・である」と言うことが中心だった。この世の中にはそれしかないと思っていた。さらに「もし・・・でないなら・・・・・でないかもしれない」ようなことも考えられるようになった。

丁度、階段から落ちて病院に担ぎ込まれた時から1年位経った時のように思う。つまり小学五年生の秋だったように思う。これは私を数学や理科という方向に導いてくれた。逆に国語はあまり好きではなかった。国語には空想みたいなものがないように思ったからである。しかしこれはとんでもない間違いだった。

柳田国男の遠野物語に出会った時、初めて国語の面白さを知った。私にとっては歳を取ってもまだ国語だったのです(笑)しかしそれは強烈な印象だった。松本清張とは全く異なった世界にも感じられたのです。宮沢賢治が読めるようになったのもこの頃からだった。そして早坂類という歌人に出会った。本を読んだ時、何故か妹を思い出してしまった。

早坂類歌集『黄金の虎 / ゴールデン・タイガー』は素晴らしい歌集だった。「黄金の虎よ野をゆけこの闇の千里を往って千里を還れ」私はこの歌に衝撃を受けてしまった。早坂類という歌人のすごさを知ったというか、弱さをも包括してしまう強い包容力を感じてしまったからである。

そして「自殺12章」を読んだ時、ある時を前後して自殺で亡くなった3人友人の呪縛からやっと解放されたと思った。やっと友人達一人一人の死に正面から向き合えるようになったのです。早坂類さんも最近大手術をされやっとこの世に生還してきた人でもある。女性とか、男性という性を超越した存在であるようにも感じてしまった。さらに女性としても魅力溢れる人でもあった。

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父は階段から落ちる以前の私のおバカなところを大いに心配したようである。私自身、あの事故から大きく変わったように思う。病院のベットで目が覚めた時、私は自分自身別人ではないかと思った程である。しばらくはそんな自分を受け入れることが出来なかったのです。

私にとって四年間の空白はどうしても埋めることができません。しかし医者に聞いてみると、「それは君が思い出せないだけ、脳はしっかりと覚えているから安心したまえ」という返事だった。その返事は私を十分に安心させた。私の場合、一生懸命に考えると全身の血液が脳に集まってしまうみたいなことらしいのです(笑)

孔子の「学びて思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし」という言葉は私に取って必須のものでした。せっかく学んでも、自分で考えてみないと知識は確かなものにならない。しかし自分ひとりで考えるばかりで学ぶことをしなければ、独り善がりになって危険だからである。

私に武器があるとすれば、唯一「Think」という刀だけである。私は知識を得るよりも、この「Think」を大事にしてきた。ある時期、積極的に本を読まないという行動も実践してきた。そんな時、本屋で本のページを開くのに躊躇した。その本を買ってしまうのではないかと思ったからである。

しかしそれは大袈裟なことだった。多くの本の目次が私の脳から通り過ぎてしまった。読みたいと思った本は意外に少なかったのです。インターネットの画面からは数百倍の情報が毎日入るようになると、急激に本の魅力が減少したが、しかし本は買ってしまっていた。私の場合、一回目を通してしまうと、二度と頁をめくるようなことはしない。

しかし、最近になってそんな本に出会えるようになった。早坂類さんの本もそうだった。私の読書傾向はユニークで普通の人達とは大きく異なるのかも知れない。有名な作家さんの本はほとんど読まないのである。だから旅行先で本を買うことが多い。そんな時は直感で本を選んでしまう。しかし表紙にはないものの、どういう訳かどの本にも猫が登場する(笑)本の中に猫が登場すると「なんだ、おまえもか・・・俺も猫になりたいよ・・」と話しかける。

以前、イラク戦争の米兵の犠牲者が四千人を超えたというニュースを聞いた時、父の言葉を思い出した。「全ての問題は個人に帰着して考えなければ本当の意味を掴めない。戦争で死んだ人の数より、家族の一員の死として捉えるべきなんだよ」という父の声が聞こえた。

父は、大統領や為政者は米兵四千人の一人一人の死と向き合う必要があると言いたかったのではないかと思う。それだけではない。イラク市民の多数の戦争犠牲者に対しても同じことである。私達を含めて世界の人々は、色々な問題の時、個人や家族を原点として物事を考える必要がある。一人一人の戦争の死に向き合うことを考えれば、戦争は必ず回避できる。私はそのように考えている。