大学生の時、父の友人の家に遊びに行ったことがある。
それは偶然の出来事だった。大学1年生の夏、五月病から解放された時だった。
大学生協の食堂に背の高い女の子が入って来た。その時の印象は「オリーブ」と言う感じだった。丁度テレビ番組で「ポパイ」が放映されていた時期でもあった。
その女の子を見た時、どこかで見たような気がしたが、直ぐには思い出せなかった。
夏休みになって実家に戻り、ゆっくりとしていた時だった。
「こう、お父さんの友達の子供も同じ大学に入ったらしいぞ、それも同じ学部だよ」と父が言った。
「お父さん、その人の名前は?」と聞いた。返事はありふれた名前だった。
「こう、博多に来る機会があったら、会いに来てと書いてあるぞ、何か子供のことで気になることがあるようなんだよ。こう、戻る時、博多のお父さんの友達の家に行ってみないか」と父が言った。
私は「うん、いいけど、この学生さん何と言うの」と聞いた「恵美ちゃんと書いてたよ・・・」
私はふと、大学に出会ったあの女の子のことを思い出していた。一緒にいた友達が「えみちゃん、こっちよ」と叫んでいたのを覚えていたからである。
そう云えば、この女の子、講義が終わった瞬間に現れ、「みなさん、大学解放の問題で集会があります。是非出席してください・・・・・」と大きな声で叫んでいたことを思い出した。それになかなかの美人でもある。背も高いしスタイルいいから、男の子にも持てそうな感じだったが、真面目すぎるような面があったように覚えている。
父は、その友人の古い写真を見せてくれた。その中には小学生くらいの女の子が写っていた。「お父さん、この写真は・・・」「彼の家で私が撮ったものだよ。コンタックスだったかな・・・だいぶ前のことだよ・・」
その女の子には見覚えがあったが、食堂で遇った女の子かどうかは分からなかった。「お父さん、この人とは親しいの」と聞いた。「一番の友達だよ・・なかなか良い奴だよ、大人しくて勉強も一番だったよ」と父は嬉しそうに答えた。
夏休みも終わりに近づいたある日、私は長崎には行かずに、佐世保経由で博多に行くことにした。父はこの友人の家に連絡をしてくれていた。その日の夕刻に父の友人の家に着いた。
「今日は、こうと言います」「こう、大きくなったね。さあ上がって上がって」と知らないおじさんが私のを家の中に招き入れてくれた。「お父さんは元気かい、相変わらず写真屋をやってるの」と聞かれた。「父は元気ですが、相変わらずで、写真屋もやってますが、細々とです」と答えた。
「えっ、そうなの、あれだけ派手なお父さんがね・・・、」「おじさん、父とはどういう関係なんですか」と聞いていたから、台所の奥から奥さんが出て来た。「こうさん、こんなに大きくなったの」と声をかけられた。「おばさんも私のことを知っているのですか」と聞いた。
「知っているわよ、お父さんがあなたを連れて私達のところに遊びに来ていたのよ。そりゃー、お父さんはあなたを特別に可愛がっていたみたいよ。他の兄弟から文句が出るんじゃないかしらと思ったくらいよ」「そうですか。これ父から預かってきましたお土産です」「ご丁寧に、ありがとうございます」
「こう、私はあなたのお父さんとは学校でも一緒だったんだよ。共に悪友と言う感じかな・・・それにしても君のお父さんは女の子にもてていたよ、なかなかハンサムだったからね」「そうですか。今はそんな面影はありません。でも今でもマーチンとかいうバイクにサングラスで街を乗り回しています。近所のおねえさ何達からは、お父さん、かっこいいわね、と言われました」
「なんだ、今でもそうなんか・・・」と父の友人は大いに笑っていた。
「ところで、こう、うちの娘も同じ大学だよ、それに学部も同じなんだよ」
「そうでしたか、それでお名前は・・・」と聞いた。そして奥さんが写真を持って来てくれた。
「あっ、この女の子、知ってます。学生運動の先頭を走っている女の子で大学でも有名です」
「こう、そうなんだよ」とおじさんは初めて困ったような顔をした。高校生の時は真面目な子でね。人ともあまり喋れなかった子なんだけどね、この前大学から封書が来て、色々なことが書いてあったのだよ。学生運動に参加していて、大学でも困っているような表現だったよ」
「そうなんですか。でも彼女は過激な運動家ではありません。いつも講義の終りに、集会に参加してくれるようにお願いに回っている感じです。その時に彼女はちょっとした意見を言ってましたが、説明や話が上手だなと思ったくらいに雄弁な人ですよ」
「えっ、そうなの」とこんどは奥さんの方がビックリしていた。
「この前、お父さんに久しぶりお手紙していたら、お父さんから返事が来て、あんたも同じ大学で同じ学部に入ったことが分かったんだよ。それでお父さんにこうを遊びに寄せてくれと頼んだんだよ・・・いや、ビックリしたよ」
「こう、妹さんは小さい頃に亡くなったんだよね」「そうです。私がもうすぐ小学二年生になるの時でした。私より3つかつ4つ年下と思います。父が私を可愛がったのも、妹が亡くなってしまったからのようにも思います」
「こう、そうかもしれないね。お母さんは相当にショックだったみたいだったね、でもこう、戦後は何処でも同じだったんだよ、あの頃に赤痢や疫痢で亡くなったしまった子供は多かったんだよ」
「そうですか・・・」
「ところで恵美さんはどうしているのですか」
「今年の夏は、運動で忙しくて帰れないと電話があったよ。かみさんが一日ぐらいは帰って来なさいと言ったら、しぶしぶ9月になったら帰るみたいなことを言ったらしいのだけど、あてにならないかもしれないね」
「こう、どう思う。このままにしておいていいだろうか、君からなんとか意見を言ってもらえないだろうか」とおじさんは私に話した。私はその時、彼女の雄弁な話しぶりを思い出していた。私が到底太刀打ちできるような相手ではないように思った。
「おじさん、恵美さんは今何を言っても無理だと思います。それほどに熱心に学生運動に取り組んでいます。私の意見で考えを変えるようなことはしないと思います。それに恵美さんが言っていることはまともな意見です。過激な学生の意見とは異なります」と私は返事した。
「こう、あなたの意見を聞いて少し安心したよ。過激派の中に入っているのではと心配していたんだよ」と言った。お子さんは恵美さん一人だけのようだった。私は出されたジュースを飲みながら奥さんの方を見た。恵美さんと同じような印象があった。可愛い人だった。恵美さんはお母さんそっくりだった。
「今日はありがとうございました。恵美さんと話す機会があったら、話してみますが、今はやはり無理だと思います。でも何か分かったら、連絡するようにします。これから兄貴の家に行きます。明日には長崎に戻ります」
「こうさん、ありがとう、恵美子に会ったら、一度は帰りなさいと言ってね」と奥さんが言った。
「分かりました。そのように伝えます」と返事した。夏の夕方はまだ明るかった。それでも7時は過ぎていた。
秋になって彼女と話す機会があった。
「恵美さん、お父さんと私の父が友達なんだって・・・」と私は恐る恐る話した。
「えっ、そうなの、父が話していた学生ってあなたのことなの」と驚いていた。
「私、今、学生運動しないノンポリ学生とは付き合わないことにしているの・・・」
と以外にあっさりと言われてしまった。
「恵美さん、一度は家に帰ったの」と聞いたら「帰らないわよ、今それどころではないの、これからの日本がどうなるのか分からないのに・・・・」と怒ったような雰囲気だった。

彼女はそれから段々と学生運動に熱心に取り組み始めた。2,3年すると、「女闘志家、オリーブ」といわれるようになっていた。同時に彼女の得たいのしれない美しさも磨きがかかっていた。
私は彼女を見るたびに、ポパイの中のオリーブを思い出していた。
卒業の時期になって、ある時、街角で彼女を見た。彼女も気づいたようだった。私にはなんとなく彼女がやつれたように思った。彼女はしばらく私の方を見ていたが、何も言わずに医学部の方に走っていった。その後彼女には会っていない。
大学生の今の時期だった。彼女はどうしているんだろうかと思う。今でも運動家なんては思わないものの、やり手である彼女は何かを掴んだのかもしれないと思った。
「人とは不可解なり」と言う言葉が頭の中に浮かんだ。
それは偶然の出来事だった。大学1年生の夏、五月病から解放された時だった。
大学生協の食堂に背の高い女の子が入って来た。その時の印象は「オリーブ」と言う感じだった。丁度テレビ番組で「ポパイ」が放映されていた時期でもあった。
その女の子を見た時、どこかで見たような気がしたが、直ぐには思い出せなかった。
夏休みになって実家に戻り、ゆっくりとしていた時だった。
「こう、お父さんの友達の子供も同じ大学に入ったらしいぞ、それも同じ学部だよ」と父が言った。
「お父さん、その人の名前は?」と聞いた。返事はありふれた名前だった。
「こう、博多に来る機会があったら、会いに来てと書いてあるぞ、何か子供のことで気になることがあるようなんだよ。こう、戻る時、博多のお父さんの友達の家に行ってみないか」と父が言った。
私は「うん、いいけど、この学生さん何と言うの」と聞いた「恵美ちゃんと書いてたよ・・・」
私はふと、大学に出会ったあの女の子のことを思い出していた。一緒にいた友達が「えみちゃん、こっちよ」と叫んでいたのを覚えていたからである。
そう云えば、この女の子、講義が終わった瞬間に現れ、「みなさん、大学解放の問題で集会があります。是非出席してください・・・・・」と大きな声で叫んでいたことを思い出した。それになかなかの美人でもある。背も高いしスタイルいいから、男の子にも持てそうな感じだったが、真面目すぎるような面があったように覚えている。
父は、その友人の古い写真を見せてくれた。その中には小学生くらいの女の子が写っていた。「お父さん、この写真は・・・」「彼の家で私が撮ったものだよ。コンタックスだったかな・・・だいぶ前のことだよ・・」
その女の子には見覚えがあったが、食堂で遇った女の子かどうかは分からなかった。「お父さん、この人とは親しいの」と聞いた。「一番の友達だよ・・なかなか良い奴だよ、大人しくて勉強も一番だったよ」と父は嬉しそうに答えた。
夏休みも終わりに近づいたある日、私は長崎には行かずに、佐世保経由で博多に行くことにした。父はこの友人の家に連絡をしてくれていた。その日の夕刻に父の友人の家に着いた。
「今日は、こうと言います」「こう、大きくなったね。さあ上がって上がって」と知らないおじさんが私のを家の中に招き入れてくれた。「お父さんは元気かい、相変わらず写真屋をやってるの」と聞かれた。「父は元気ですが、相変わらずで、写真屋もやってますが、細々とです」と答えた。
「えっ、そうなの、あれだけ派手なお父さんがね・・・、」「おじさん、父とはどういう関係なんですか」と聞いていたから、台所の奥から奥さんが出て来た。「こうさん、こんなに大きくなったの」と声をかけられた。「おばさんも私のことを知っているのですか」と聞いた。
「知っているわよ、お父さんがあなたを連れて私達のところに遊びに来ていたのよ。そりゃー、お父さんはあなたを特別に可愛がっていたみたいよ。他の兄弟から文句が出るんじゃないかしらと思ったくらいよ」「そうですか。これ父から預かってきましたお土産です」「ご丁寧に、ありがとうございます」
「こう、私はあなたのお父さんとは学校でも一緒だったんだよ。共に悪友と言う感じかな・・・それにしても君のお父さんは女の子にもてていたよ、なかなかハンサムだったからね」「そうですか。今はそんな面影はありません。でも今でもマーチンとかいうバイクにサングラスで街を乗り回しています。近所のおねえさ何達からは、お父さん、かっこいいわね、と言われました」
「なんだ、今でもそうなんか・・・」と父の友人は大いに笑っていた。
「ところで、こう、うちの娘も同じ大学だよ、それに学部も同じなんだよ」
「そうでしたか、それでお名前は・・・」と聞いた。そして奥さんが写真を持って来てくれた。
「あっ、この女の子、知ってます。学生運動の先頭を走っている女の子で大学でも有名です」
「こう、そうなんだよ」とおじさんは初めて困ったような顔をした。高校生の時は真面目な子でね。人ともあまり喋れなかった子なんだけどね、この前大学から封書が来て、色々なことが書いてあったのだよ。学生運動に参加していて、大学でも困っているような表現だったよ」
「そうなんですか。でも彼女は過激な運動家ではありません。いつも講義の終りに、集会に参加してくれるようにお願いに回っている感じです。その時に彼女はちょっとした意見を言ってましたが、説明や話が上手だなと思ったくらいに雄弁な人ですよ」
「えっ、そうなの」とこんどは奥さんの方がビックリしていた。
「この前、お父さんに久しぶりお手紙していたら、お父さんから返事が来て、あんたも同じ大学で同じ学部に入ったことが分かったんだよ。それでお父さんにこうを遊びに寄せてくれと頼んだんだよ・・・いや、ビックリしたよ」
「こう、妹さんは小さい頃に亡くなったんだよね」「そうです。私がもうすぐ小学二年生になるの時でした。私より3つかつ4つ年下と思います。父が私を可愛がったのも、妹が亡くなってしまったからのようにも思います」
「こう、そうかもしれないね。お母さんは相当にショックだったみたいだったね、でもこう、戦後は何処でも同じだったんだよ、あの頃に赤痢や疫痢で亡くなったしまった子供は多かったんだよ」
「そうですか・・・」
「ところで恵美さんはどうしているのですか」
「今年の夏は、運動で忙しくて帰れないと電話があったよ。かみさんが一日ぐらいは帰って来なさいと言ったら、しぶしぶ9月になったら帰るみたいなことを言ったらしいのだけど、あてにならないかもしれないね」
「こう、どう思う。このままにしておいていいだろうか、君からなんとか意見を言ってもらえないだろうか」とおじさんは私に話した。私はその時、彼女の雄弁な話しぶりを思い出していた。私が到底太刀打ちできるような相手ではないように思った。
「おじさん、恵美さんは今何を言っても無理だと思います。それほどに熱心に学生運動に取り組んでいます。私の意見で考えを変えるようなことはしないと思います。それに恵美さんが言っていることはまともな意見です。過激な学生の意見とは異なります」と私は返事した。
「こう、あなたの意見を聞いて少し安心したよ。過激派の中に入っているのではと心配していたんだよ」と言った。お子さんは恵美さん一人だけのようだった。私は出されたジュースを飲みながら奥さんの方を見た。恵美さんと同じような印象があった。可愛い人だった。恵美さんはお母さんそっくりだった。
「今日はありがとうございました。恵美さんと話す機会があったら、話してみますが、今はやはり無理だと思います。でも何か分かったら、連絡するようにします。これから兄貴の家に行きます。明日には長崎に戻ります」
「こうさん、ありがとう、恵美子に会ったら、一度は帰りなさいと言ってね」と奥さんが言った。
「分かりました。そのように伝えます」と返事した。夏の夕方はまだ明るかった。それでも7時は過ぎていた。
秋になって彼女と話す機会があった。
「恵美さん、お父さんと私の父が友達なんだって・・・」と私は恐る恐る話した。
「えっ、そうなの、父が話していた学生ってあなたのことなの」と驚いていた。
「私、今、学生運動しないノンポリ学生とは付き合わないことにしているの・・・」
と以外にあっさりと言われてしまった。
「恵美さん、一度は家に帰ったの」と聞いたら「帰らないわよ、今それどころではないの、これからの日本がどうなるのか分からないのに・・・・」と怒ったような雰囲気だった。

彼女はそれから段々と学生運動に熱心に取り組み始めた。2,3年すると、「女闘志家、オリーブ」といわれるようになっていた。同時に彼女の得たいのしれない美しさも磨きがかかっていた。
私は彼女を見るたびに、ポパイの中のオリーブを思い出していた。
卒業の時期になって、ある時、街角で彼女を見た。彼女も気づいたようだった。私にはなんとなく彼女がやつれたように思った。彼女はしばらく私の方を見ていたが、何も言わずに医学部の方に走っていった。その後彼女には会っていない。
大学生の今の時期だった。彼女はどうしているんだろうかと思う。今でも運動家なんては思わないものの、やり手である彼女は何かを掴んだのかもしれないと思った。
「人とは不可解なり」と言う言葉が頭の中に浮かんだ。
