叶野未知は藤木未知と呼ばれるようになったものの、なかなか慣れなかった。「藤木未知さん」と銀行で呼ばれた時、すぐには反応できなかった。他の人が呼ばれたのかと思ったほどである。もっと衝撃だったのは至くんが未だに「叶野未知さん」は言っていることだった。至くんは「お母さん」「叶野未知さん」と言うけれど「藤木未知さん」と言ったことはなかったのです。

でも日常の生活でそんなことを気にしていることもあまりなかったが、いつかは至くんに聞いてみようと思っていた。そんなある日、2才になろうとしていた至くんに無意識のうちに声をかけていた。

「至くん、なぜ私を呼ぶのに、お母さんや叶野未知さんで、藤木未知さんと云わないの」

至くんは普通にしゃべった。「お母さん、それは私が叶野未知さんとの付き合いがかなり永いからです。何千年にもなる付き合いで、結婚したからと言っても1,2年では直せないのです。それから、藤木未知さんというより叶野未知さんと呼んだ方がなぜかすっきりするんです。でもお父さんには言わないでね」

驚いたのは叶野未知の方だった。2才にとどかない至くんが大人みたいにしゃべったからである。叶野未知は至くんがこんな風にしゃべっているところを誰から見られたら大変だと思った。いつもは頭の中での会話だったからである。でも叶野未知はとてもうれしかった。

しかし至くんはお父さんである藤木香留麻の前では、これまでどおりの幼い子供を演じていた。それが叶野未知にはとても面白かった。

「お母さん、今がその時なんです」

叶野未知は至くんの唐突にも思える声に戸惑った。「至くん、今がその時って・・・どんなこと?」
「お母さん、今がその時なんです。お父さんとお母さんが力を合わせて何かを起こす時なんです」
叶野未知はそれでも至くんの言わんとしているところが分からなかった。

しばらくして叶野未知は至くんの方を見た。彼はすぐに寝てしまっていた。

叶野未知は不思議な気分を味わっていた。至くんと話が出来たことがとてもうれしかった。頭の中の会話ではない、人と人との会話を身近に感じることができたからである。自分の子供でありながら、何か違うところも感じているが、わが子には間違いないという強い確信もあった。

それにしても、何で今がその時なんだろうと考えた。いくら考えても結論を得ることが出来なかった。叶野未知は再び至くんの方を見た。すやすやと眠っている。今話しかけるのは良くないかもしれないと思ったが、頭の中で呼びかけてみた。

「至くん、ちょっといい?」「おかあさん、至は今寝ています。まだ赤ちゃんです。寝かせてください」と頭の中に返事が戻ってきた。叶野未知は苦笑いをした。「そう、至くん、まだ赤ちゃんだもんね」とうれしそうに呟いた。


夜遅くになって藤木香留麻が帰ってきた。
「あなた、ご飯はどうしますか」「未知さん、ご飯半分だけお願いします」といってシャワールームに入っていった。しばらくするとバスローブを巻いた藤木香留麻が居間に戻ってきた。ご飯の用意をしながら、「あなた、至くんが面白いことをしゃべったの」「おいおい、至はまだ赤ちゃんだよ、しゃべれるはずないでしょう」と返事された。叶野未知は少し自分でもおかしくて笑った。

「でも、あなた、至くんは今がその時みたいなことを言うんですよ」「未知さん、至くんとの頭の中での会話のことですか」と聞かれた。叶野未知は本当のことが言えなかった。「そうなんです・・・・」

「至くんは私達に何を言いたいんでしょう」藤木香留麻はまじめに考え始めたようだった。
「ところで、あなた、最近はあのスプーンはどのようにしているのですか」
「あっ、あのスプーンね、最近はなくしてもいけないからと思って、持ち歩いていないんだよ。たんすの上の引き出しの中にしまっているよ」「そうなんですか・・・・、ところで最近スプーンは見たことかないのですか、ちゃんとありますか」「勿論あると思うよ」といって藤木香留麻はソファーから立ち上がって和室の箪笥の中の引き出しを探しはじめた」

しばらくして藤木香留麻は居間の方に戻ってきた。手にはあのスプーンが握られていた。
「よく考えてみると、スプーンのことはすっかり忘れていたよ」「そうでしょう、私も見たことがなかったですから・・・・」藤木香留麻はテーブルの上に無造作にそのスプーンを置いた。

「あなた、コーヒーでもいれましょうか」「それはいいね、今日は朝方だけだったから飲みたい」
叶野未知はキッチンに向かいコーヒーの用意を始めた。

しばらくして叶野未知はコーヒーを入れてテーブルの上に二つのカップを置いた。しかし藤木香留麻がいない。叶野未知は周りを見渡した。夫は至くんのベットの方で何かをしていた。夫は至くんにあのスプーンを握らせていた。叶野未知には不思議な行動に思えた。

そして藤木香留麻は黙ってテーブルの席に着いた。そしてコーヒーを飲み始めた。
「あなた、大丈夫」と聞かれて藤木香留麻は初めて意識を取り戻したようだった。「あっ、コーヒー美味しいよ」と笑って言った。「あなた至くんは起きてましたか」「いや、まだ寝てましたよ」と再びお笑い顔をしていた。

5分ぐらい経過した時だった、至くんのいる和室の方から何かがやがやした音が聞こえてきた。不思議に思ったのは叶野未知の方だった。叶野未知はコーヒーカップを降ろし、和室の方に向かった。そして大きな声を上げた。

「あなたー」とても大きな声だった。恐怖というより驚きの声に近かった。藤木香留麻は驚いてすぐさま和室の方に入って行った。そして藤木香留麻も「なんだこれは」と大きな声を上げた。至くんの握っているあのスプーンから映像がすぐ近くの壁に投影されていたのです。

「あなた何でしょうか、この映像、そしかして地震の映像ではありませんか」「そうですね、それにしてもここはどこなんでしょか」二人はその映像に釘付けにされていた。それは高層ビルの映像だった。なんとしたことか大きく左右に揺れていた。

一番大きく揺れていたのは細い高層ビルだった。最初はビルの上の部分が左右に大きく揺れていたが、しばらくすると、中層階付近を境に弓のように大きく揺れ始めた。「あなた、この高層ビル、真ん中の付近で折れてしまうそうです」と叶野未知は恐怖にも似た声を上げた。藤木香留麻は声を上げることも出来なかった。

しばらくしてとうとうその高層ビルは真ん中の階付近から折れ曲がって倒れていった。スローモーションの映像を見ているような感じだった。藤木香留麻も叶野未知も9.11のあのビルの崩壊の時と同じように思った。その崩壊はそのビルに止まらなかった。周りのビルにぶっつかり次々と高層ビルが崩壊していく様子だった。ものすごい粉塵の煙に映像は見えないものの、建物が崩壊する大きな音だけが不気味に響いていた。そして突然にその映像は消えてしまった。

二人は呆然とその場に立ち竦んでしまった。二人は無意識のうちに手をしっかりとつないでいた。そしてお互いの指を強く握り締めていた。「あなた、これはいったいどうしたことなんてしょうか」と叶野未知は藤木香留麻の方を見て言った。

そしてゆっくりと居間に戻りテーブルの席に着いた。そして飲み残しのコーヒーを飲み干した。
「あなた、これは何かの警告ではないでしょうか」「僕もそのように思う、私達人類に対する警告かもしれない・・・」「でもあなた、どうしたらいいのでしょう」「・・・・」藤木香留麻は黙っていた。

叶野未知は思い出した。至くんが「お母さん、今がその時なんです」と言ったことを思い出した。