憧れの地、雲仙に到着したのは、午後の3時を過ぎたころでした。
小雨の雲仙は灰色と硫黄の匂いで迎えてくれました。
この調子だと、すべての写真は灰色の白黒写真になってしまうかも知れないほどの色の鮮やかさのない世界でした。街を通る赤い車だけが異様に色ずいていて、その他は白黒写真の状態なのです。

時間が早かったものの、私は直ぐに旅館に直行しました。
かせや旅館、雲仙でも古い方に入る老舗の旅館です。
こうのブログ
入ってすぐに若い女将が相手してくれました。それにしてもガランとしているのです。
丁度今が閑散期で、特にこの日はどこも休業状態とのことでした。そのことの意味が分かるのはしばらくしてからです。
荷物を部屋において、すぐにカメラを持って旅館を飛び出ました。明るいうちに写真を撮っておきたかったからです。
まずは地獄めぐりのコースに向かいました。このコース20分はかかるのですが、誰一人として会う人はいませんでした。やっと女将の言っていた特別な日の意味が分かりました。
こうのブログ
ここ雲仙の地獄は、別府温泉の地獄と異なり、そのままの自然の状態をよく保存していました。飾りと言えば、名前ぐらいです。「君の名は」の真知子の名前もあり、この程度が演出なのです。まったくの自然の状態に安全な道が整備されていると表現していいでしょう。道の両側に安全のための頑丈な柵があり、散策する人達に安心感を与えると思いました。
こうのブログ
それでもこの白い煙は最初、恐怖を覚えます。前が見えなくなるからです。それに硫黄のにおい、でもこのにおいは微かなもので、気分が悪くなるようなことはありませんでした。

2,3度しかない外気の気温に対し、ここ地獄は温泉の熱気につつまれていて逆に快適な感じがしたほどです。でも逆に夏は大変かもしれないと思いました。
こうのブログ
小雨の中、誰ひとりいない散策のコースを行くのはチョット怖い感じがしました。所々で写真を撮ってみました。
こうのブログ
温泉のガスでカメラが心配でしたが、かまわずに撮り続けました。よく雲仙の紹介写真に出ている風景の場所もそのまま残されていました。

国道を挟んで反対側の地獄というより荒地みたいな場所には、不思議な光景が見られました。
人にとっては危険とされているその荒地に野良犬が2,3匹たむろしているのです。最初
何故こんなところに犬がと思いましたが、すぐに寒さをしのぐためと分かりました。それにしてもイヌはあまり温度の高くない安全な場所を選んで陣取っているようです。

私が近づこうとすると、唸り声をあげて威嚇します。「ここは俺の縄張りだ」と言わんばかりの唸り声でした。
こうのブログ
私は構わず、その傍を通り、湿地帯の方に向かいました。このコースもは20分程度かかるのですが、ここでも人に会いません。流石に怖くなってしまいそうでした。

湿地帯を普通の車道が通ってました。しかし交通量はほんとに少なく、私が見てる間に2台しか通過しませんでした。ほんとに今日は特別な日なんだなと思いました。

ここは単なる湿地帯ですが、荒地と表現した方が良いでしょう。荒地の石ころ以外何もないのです。
こうのブログ
しかたなく、私は旅館に引き上げました。

すぐに女将から食事の前にお風呂でもといわれてお風呂に行きました。
実はこの旅館本日の宿泊客は私一人だったんです。そんなことは滅多にないと女将も言ってましたね。
中位の湯舟には温泉のお湯がたっぷりと出ていました。

その湯舟を一人で占有して、気持ちいい気分でした。
しかし、一人なのでお湯が冷えません。5,6分入っていると熱くなってしまいます。だから何度も出入りして時間を過ごしました。露天風呂ではないのですが、部屋の空気は冷たいのです。寒さでゾクゾクとするほどです。
だから、お湯から出て、2,3分もすると体が冷えてまた湯舟に入ります。

そんな風にして当日は3,4回は入ったと思います。

夕食は一階の居間で取りました。田舎の料理ですが、美味しくてお皿のものはすべて食べてしまいました。
特に鶏のお肉の水だきはなかなか美味でした。あっさりとした中に味わいがあるのです。野菜も野菜と主張しているような独特の味とにおいがありました。

夕食の後は2回とほど温泉に入りました。もちろん誰もいません。女将の話では朝10時に掃除して、11時には入れるようにしているとのことでつまり何時でも温泉に入れるのです。もちろん夜中の2時もOKでした。
流石に私は、11時まで終えました。

それから、長崎で買った本「悼む人 天童荒太 文芸春秋」を読み始めたのですが、少し疲れが出てそのまま眠ってしまいました。
12時ごろに目が覚めて、慌てておふとんに入りました。

静かな夜が過ぎて行きます。何か古い時代の夢を見たような感じがしましたが、ハッキリしません。気持ち良く寝れたことには違いありません。

朝は8時に食事をしました。もちろんLOHASHIのマイ箸を持参しています。
旅行の時はもちろん、常にLOHASHIのマイ箸は持っていくことにしています。

それから、温泉の朝風呂に入ります。段々と元気が出てきます。

今日はこれから、父の形跡を辿ります。先々代の女将に写真館の話を聞きました。雲仙には3件ほどの写真館があったとのことでした。戦前の話で、先々代の女将もあまりよく覚えていないようでした。古い写真が雲仙観光資料館にあるのでそこに行ってみたらとのことでした。

そこは旅館のすぐ近くにありました。本館と別館がありました。その資料館の館長にいろいろと当時の話や写真を見せてもらいました。その中に父が持っていた写真が1枚ありました。それは父が撮ったものかどうかは分かりません。ここには父の話そのものの写真が沢山展示されていました。
こうのブログ
この資料館には父の言っていたとおりの世界がありました。
ダンスパーティ、日本人と外国人が一緒にダンスやテニスやゴルフを楽しんでいるのです。国際ゴルフ選手権なども開催されたようですが、ほとんどが外国人で日本人は少なかったようです。

ゴルフ大会では、数十台の外車がこのコンペに集まり、当時としては壮観な光景だったようです。父の言っていた車はベントレーというイギリスのものでした。当時はまだ日本の車は数多く存在していません。ほとんどが外車だったのです。

冷水のプールも作られていました。温水のプールでないのは、水泳という競技を意図したもので、わざわざ川の水を堰き止めて作られたようです。設計が外国人が行い、構築は日本人が行ったとのことでした。

当時の雲仙は、キリシタン弾圧の象徴としての場所でもあったのですが、異国の人達はそのことよりも避暑地として雲仙に来ていたようです。イギリス・フランス・ドイツ・上海、・・から来ていたのです。父が上海に憧れていたのは、その影響だったようです。

つまり外人達は自分たちの住んでいるところを自慢していたようです。父は年に2,3回ほど上海に行ってましたから、よほど上海が気に入っていたのでしよう。当時の外国人はハイカラサンと言われていて、父もそのような言い方をしていました。

連日のようにダンスパーティが行われた時期もあったようです。ご婦人たちはロングドレスのほかに日本の着物を着ている人もいます。外人の男性も和服を着ています。逆に日本人が洋服というような奇妙な写真もありました。そんな時代だったようです。
こうのブログ
戦争前の時代はこのように外国人とも仲良くやれていた訳ですが、戦争が始まった時は、外国人はどうしてと言っていたようです。それでもぎりぎりまで帰国しないで日本に居た人もいました。長崎には外国人の血を引く二世や三世が多くいます。自分の子供いたからという人もいます。

長崎の女の人でかわいいと言われる人は外国人の血が混じっている人が多かったように思います。大学時代3%程度は二世や三世の子供がいたことを思い出します。おじさんやおばあさんはと聞くと日本人ではないのです。

でも長崎はそんなハーフには寛大でした。逆にチヤホヤされたのかもしれません。目の色もよく見てみると違うのです。そう云えば、私のガールフレンドも薄い青色の眼をしていました。ひいじいさんが外国人と言ってました。

途中、有名な雲仙観光ホテルに行きました。入口付近をうろうろしていると、ホテルのドアマンがホテルのロビーを案内してくれました。本当はここを予約したかったのですが、ツインがほとんどだったので、シングルはないと思っていました。ドアマンは、シングルでもOKですよと教えてくれました。
こうのブログ
次回はここに泊まろうと思います。

父の言っていた外人たちは、このような西洋館に住んでいたようです。数十件の西洋館の建物があったようで、そこに写真の撮影に行っていたことが分かりました。

私には父の話は幻のようなものでした。当時の貧乏に近い生活からは、話の出てくる裕福な話は信じられなかったのです。でも此処に来て、すべて父の話の通りでした。写真館は儲かっていて、やはり裕福な生活をしてしたようです。長男や長女の高価な玩具、お手伝いさんに外車、すべてがそのとおりの世界でした。

父が上海に行きたくて何回も出かけていたことは母からも聞いていました。母からはあなたが一番父に似ているから、奥さんに逃げられないようにしなさいと言われました。そう云えば父は私を一番可愛がってくれたように思います。生前の父は大人になっても私の頭をなでていました。

父もこの地に居たのかと思うと変な気持ちでした。父からはいろいろなことを学んだ。特にどのように人生を過ごすのかについて父の姿そのものがそうであったように思う。だから父にはもちろん母にも感謝している。