私の知人に音楽に感動出来ない人がいる。
その他のことはほとんど変わらないのに、この音楽についてのみ大きく異なる。音楽に感動出来ないって、どうしてと質問すると、音楽で感動出来る方が良く分からないと返答が来る。ではどういう風に音楽を聴いているの?と質問すると、普通に聞いているよ、また返事が返ってくる。本当に音楽を聞いて感動出来ないの?と質問すると、同じことを言わせないでと怒られしまう。
分からないままにしておけない私は、しばらくしてまた質問をした。どこで聞いているの?と質問を変えたら、どうも右脳ではなく左脳で聞いているみたいだという。つまり、音が入ってきても、音符や音程やメロディーみたいなものが脳を占めてしまい、何の感動も生じないとのことであった。

彼女は、そう云えばあまりというかほとんど音楽についての話がない。しかしコブクロやEXILEは知っている。音楽はないよりあった方が良いという。私のジャズがなかったら、この世は終わりだと若いころに考えたことを話すと、「うそみたい」という。「なんで音楽がないだけで死ぬのよ?」というのである。
やれやれ、何とかして音楽の感動を知ってもらいたいと思った私は、いろいろと試してみることにした。最近流行りのデジタルオーディオの装置をプレゼントしたが、あまり聞いていないようである。最初のことは物珍しさもあったが、最近は全くその話題はない。
次の手では、ライブに見に行くことにした。あまり知られていない歌手だったが、最中も、終わった後も、「面白かったね」ダケでほとんど感動したという様子がない。私の方がすごく良かったと思ったのに、何だろうこの大きなギャップはと考えてしまう。
彼女の家庭環境みたいなものを聞いてみたが、本はあっても音楽の話題はほとんどというか全くなかったようである。同じ同級生がコーラス部に入りたいと言っていた時も、なんでコーラス部なのと思ったそうである。もちろんテレビはあったし、ラジオあった。しかし音楽という要素がないのである。
そんな家庭があるのだろうかと思ってしまうが、そうかもしれないと思ってしまう。私の家庭は音楽の環境の中で育った。父は外国人との付き合いが多くジャズも聞いていた様である。日本の歌手江利チエミの発音は外人並と言っていた。家ではラジオからVOAの放送があり、毎日のように聞いていた。
一番上の兄貴はクラシックにのめり込んでいた。給料のほとんどを洋楽のレコードの購入に充てていた。私はドビッシー・チャイコフスキー、ベートーベン、モーツワルト、バッハ、ハイドン、リスト、ショパン、・・・などなどほとんどの曲と作者を知っていた。
そんな環境で育った私は、小学生のころは、音楽の先生をしていた義兄のもとでの女性コーラス部のボーイソプラノを担当していた。中学校と高校ではトローンポーンを担当していた。特に高校では新任の女教師のピアノに魅せられて真剣に音楽家になろうと思ったことがあった。
当時部長だった私は、時々先生の下宿に呼ばれて行った。すごくチャーミングな先生で、下宿に行くと暑い夏は短パン姿にビックリしてしまった。その時、先生は私も演奏家になりたいと思ったが、自分よりも上手なことがいっぱいことを知り、音楽の先生になったことを知った。優しくて、かわいい先生だった。
その後の音楽との関わりではいつもこの先生のことを思い出した。大学では、ベースと時々ピアノを担当した。もちろんピアノはだれにも習わなかったがジャズは弾けた。今考えるとゾッとするくらい不思議なことである。
大学では軽音楽部に所属していて、時々街のキャバレーにバンドの譜面を写しに行っていた。そして時々キャバレーのステージでも演奏した。只で譜面を写させてもらう代わりでもある。その時に内山田洋とクールファイブの連中と知り合った。当時、前川清は同じくらいの青年で、マヤさんという専属の歌手の指導も受けていた。キャバレーが終わると街にくり出してジャズ喫茶で演奏をしていた。
マイルス・コンボ・椎の実、キャッツ・サボイ・・・それにfanfanにフラワーチャイルドなどが長崎のジャズシーンを牽引していた。当時は全国からジャズの好きな青年が長崎にもやってきた。私の下宿にもその時の仲間が何人も泊まりに来た。そこで東京や名古屋や大阪や京都のジャズシーンを聞かせてもらった。

そして、私も東京、京都、大阪、広島、博多とジャズ行脚に行った。京都と広島ではジャズ喫茶で知り合った仲間の家に泊めてもらった。お礼は長崎のジャズシーンを説明することであった。長崎に来たら此処と此処と此処は行くべきだというような話である。
広島で知り合った彼女は長崎に遊びに来た。その時は大学をサボって案内をした。長崎はグラバー亭や大浦天主堂、原爆記念館・浦上天主堂にチャンポン、皿うどん、吉宗の茶碗蒸し、雲龍亭の一口ギヨウザ、浜かつのかつどんなどいろいろと案内をした。
彼女は「長崎の人はあなたみたいにこんなに案内してくれるの」と聞かれたので、大見栄を切って「そうだよ」と答えた。「長崎の人って太っ腹なのね」と言われた時にはなんとも答えられなかった。三日で半月分の食費を使ってしまったからである。
でもその時アルバイトを思い出し、クラブやラウンジなどで夜にベースを演奏して稼いだ。週に夜3回程度の演奏(3時間)で新卒の給料一か月分よりも高かった。好景気の時代だったので繁華街の思案橋では夜には人の肩が触れ合うほどの賑やかさだった。当時の大学生は上は金ボタンの学生服にスラックス姿ですぐに分かった。だから、スナックなどに飲みに行っても、大方周りの大人が、「お前は大学生だろう、お金は飲み代に使うな本を買え」と言われて、ほとんど飲み代を払うことはなかった。そのかわり、何かをしゃべらされたり、また芸をしなければならなかった。
そんなこんなの時代が過ぎて行った。
そしてジャズ仲間同士の会話では、「ジャズがなかったら死んでしまうかも」というのが普通に云われていた。今となってはおかしい響きであるが、当時はそれこそ真剣だった。当時から音楽を聞けて感動出来ることの幸せは大事であると思った。音楽を聞いて感動出来ない人が居ることは知らなかったし、考えもしなかった。

脳科学を勉強して。少しそのことが分かるようになった。次回はそのことについて書いてみようと思っています。
その他のことはほとんど変わらないのに、この音楽についてのみ大きく異なる。音楽に感動出来ないって、どうしてと質問すると、音楽で感動出来る方が良く分からないと返答が来る。ではどういう風に音楽を聴いているの?と質問すると、普通に聞いているよ、また返事が返ってくる。本当に音楽を聞いて感動出来ないの?と質問すると、同じことを言わせないでと怒られしまう。
分からないままにしておけない私は、しばらくしてまた質問をした。どこで聞いているの?と質問を変えたら、どうも右脳ではなく左脳で聞いているみたいだという。つまり、音が入ってきても、音符や音程やメロディーみたいなものが脳を占めてしまい、何の感動も生じないとのことであった。

彼女は、そう云えばあまりというかほとんど音楽についての話がない。しかしコブクロやEXILEは知っている。音楽はないよりあった方が良いという。私のジャズがなかったら、この世は終わりだと若いころに考えたことを話すと、「うそみたい」という。「なんで音楽がないだけで死ぬのよ?」というのである。
やれやれ、何とかして音楽の感動を知ってもらいたいと思った私は、いろいろと試してみることにした。最近流行りのデジタルオーディオの装置をプレゼントしたが、あまり聞いていないようである。最初のことは物珍しさもあったが、最近は全くその話題はない。
次の手では、ライブに見に行くことにした。あまり知られていない歌手だったが、最中も、終わった後も、「面白かったね」ダケでほとんど感動したという様子がない。私の方がすごく良かったと思ったのに、何だろうこの大きなギャップはと考えてしまう。
彼女の家庭環境みたいなものを聞いてみたが、本はあっても音楽の話題はほとんどというか全くなかったようである。同じ同級生がコーラス部に入りたいと言っていた時も、なんでコーラス部なのと思ったそうである。もちろんテレビはあったし、ラジオあった。しかし音楽という要素がないのである。
そんな家庭があるのだろうかと思ってしまうが、そうかもしれないと思ってしまう。私の家庭は音楽の環境の中で育った。父は外国人との付き合いが多くジャズも聞いていた様である。日本の歌手江利チエミの発音は外人並と言っていた。家ではラジオからVOAの放送があり、毎日のように聞いていた。
一番上の兄貴はクラシックにのめり込んでいた。給料のほとんどを洋楽のレコードの購入に充てていた。私はドビッシー・チャイコフスキー、ベートーベン、モーツワルト、バッハ、ハイドン、リスト、ショパン、・・・などなどほとんどの曲と作者を知っていた。
そんな環境で育った私は、小学生のころは、音楽の先生をしていた義兄のもとでの女性コーラス部のボーイソプラノを担当していた。中学校と高校ではトローンポーンを担当していた。特に高校では新任の女教師のピアノに魅せられて真剣に音楽家になろうと思ったことがあった。
当時部長だった私は、時々先生の下宿に呼ばれて行った。すごくチャーミングな先生で、下宿に行くと暑い夏は短パン姿にビックリしてしまった。その時、先生は私も演奏家になりたいと思ったが、自分よりも上手なことがいっぱいことを知り、音楽の先生になったことを知った。優しくて、かわいい先生だった。
その後の音楽との関わりではいつもこの先生のことを思い出した。大学では、ベースと時々ピアノを担当した。もちろんピアノはだれにも習わなかったがジャズは弾けた。今考えるとゾッとするくらい不思議なことである。
大学では軽音楽部に所属していて、時々街のキャバレーにバンドの譜面を写しに行っていた。そして時々キャバレーのステージでも演奏した。只で譜面を写させてもらう代わりでもある。その時に内山田洋とクールファイブの連中と知り合った。当時、前川清は同じくらいの青年で、マヤさんという専属の歌手の指導も受けていた。キャバレーが終わると街にくり出してジャズ喫茶で演奏をしていた。
マイルス・コンボ・椎の実、キャッツ・サボイ・・・それにfanfanにフラワーチャイルドなどが長崎のジャズシーンを牽引していた。当時は全国からジャズの好きな青年が長崎にもやってきた。私の下宿にもその時の仲間が何人も泊まりに来た。そこで東京や名古屋や大阪や京都のジャズシーンを聞かせてもらった。

そして、私も東京、京都、大阪、広島、博多とジャズ行脚に行った。京都と広島ではジャズ喫茶で知り合った仲間の家に泊めてもらった。お礼は長崎のジャズシーンを説明することであった。長崎に来たら此処と此処と此処は行くべきだというような話である。
広島で知り合った彼女は長崎に遊びに来た。その時は大学をサボって案内をした。長崎はグラバー亭や大浦天主堂、原爆記念館・浦上天主堂にチャンポン、皿うどん、吉宗の茶碗蒸し、雲龍亭の一口ギヨウザ、浜かつのかつどんなどいろいろと案内をした。
彼女は「長崎の人はあなたみたいにこんなに案内してくれるの」と聞かれたので、大見栄を切って「そうだよ」と答えた。「長崎の人って太っ腹なのね」と言われた時にはなんとも答えられなかった。三日で半月分の食費を使ってしまったからである。
でもその時アルバイトを思い出し、クラブやラウンジなどで夜にベースを演奏して稼いだ。週に夜3回程度の演奏(3時間)で新卒の給料一か月分よりも高かった。好景気の時代だったので繁華街の思案橋では夜には人の肩が触れ合うほどの賑やかさだった。当時の大学生は上は金ボタンの学生服にスラックス姿ですぐに分かった。だから、スナックなどに飲みに行っても、大方周りの大人が、「お前は大学生だろう、お金は飲み代に使うな本を買え」と言われて、ほとんど飲み代を払うことはなかった。そのかわり、何かをしゃべらされたり、また芸をしなければならなかった。
そんなこんなの時代が過ぎて行った。
そしてジャズ仲間同士の会話では、「ジャズがなかったら死んでしまうかも」というのが普通に云われていた。今となってはおかしい響きであるが、当時はそれこそ真剣だった。当時から音楽を聞けて感動出来ることの幸せは大事であると思った。音楽を聞いて感動出来ない人が居ることは知らなかったし、考えもしなかった。

脳科学を勉強して。少しそのことが分かるようになった。次回はそのことについて書いてみようと思っています。
