で、鉄の展示を見た後の、僕の思考の話。
普段のように、カフェで読書である。
このとき持参した本は、「世界は分けてもわからない」福岡伸一さんである。
- 世界は分けてもわからない (講談社現代新書)/福岡伸一
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こういう科学的なエッセイは大好きなので、しょっちゅう読む。
こういう文章に触れることが普通の人に比べて多い職業に就いているのも一因になってるだろうし、読むことが楽しいので今の仕事を辞める気にならない、というのもある。卵が先か鶏が先か。今になっては、まあどっちでもいい。楽しいことがあればいいんだから。
先の展示でも、鉄の歴史をpower of ten Yearsのスケールで追っていた。つまり、10の冪(べき)乗。10の1乗は10だし、10の2乗は100、3乗は1000…というスケール。10の9乗なら10億年という単位になる。
実はこの"Powers Of Ten"という言い回しが、このような10の冪乗を表すモノだったとは、この日初めて知った。それまでは、Shawn Laneという、もう亡くなってしまったギタリストの、今やなかなか手に入らない(そして未だに手に入れていない)アルバムのタイトルでしか聞いたことがなかった。ギタリスト、ということからも、この"Powers Of Ten"というのは「指の数」と認識していた。
YouTubeにもいくつかの彼の動画が残っているが、僕は彼以上に音数を多く弾きつつも、全く息切れするような隙もなく音符を整然と並べてみせる、音を弾き出すギタリストを聴いたことがない。最近では商業的にCDを売っているギタリスト以外にもYouTubeにはテク自慢たちが、星の数ほど自分の演奏動画をアップしているが、Shawnの演奏には彼らにはないものがある。
彼の演奏は、飛翔する。もちろん、これは比喩だ。ロックに限らず一定のリズムという箱の中で縛られた音響パッケージが20世紀後半に流行した音楽スタイルといえる。シーケンサーで作り初音ミクに歌わせた音楽は、原理的にはこの世界の発電が止まるまで歌い続けることができる。でもそれを聴き続けているわけにはいかない。我々は仕事もしなくてはいけないし、食べたり風呂に入ったりもしなくてはならない。だからこその、パッケージ化が必要だったわけだ。そして非常に洗練された形として(もちろんレコードというメディアの制限もあって)、ポピュラー音楽の「1曲」はほぼ3分から5分くらいに収められることになった。
そしてあるひとつの意味をパッケージとして、ギリシア時代から(日本では飛鳥時代から)ある「詩」の形と結びつくことになり、音楽の演奏だけでなく、詩も評価の対象として(商業的価値の評価も含む)しっかりと音楽と『結婚する』ことになったといえる。インストゥルメンタルの楽曲であっても、基本的にはボーカル入りの楽曲と似たり寄ったりの構成をとるようになったし、歌詞のなかったジャズの楽曲に歌詞が付けられ、そのテーマメロディが主体となって曲が認識されるようにもなっていった。人間は歌うのが当たり前のように言われているが、そうでもないんではないか。
日本最古の仮名文字日記である土佐日記に、都に帰る紀貫之に召し使ってもらおうと一緒に船に乗り込んだ童が歌う場面がある。
「なほこそ国の方は見やるられ 帰らや」だったけか。もちろんその歌自体が貫之の筆によって書き残されたものなので、今やこの歌がどんなものだったかは、全く分からない。文字数だけでは日本の和歌のリズム、五・七に乗っていないものなので、なにやら節をつけて口ずさんで四拍子に乗りやすくしているのだろう。
話がShawnから逸れたように見えて、彼のフレージングはそういう「枠」の二つから、ふとした瞬間に離れて別世界で鳴り響くようになる。この福岡さんの書籍では「解像度」の説明でpowers of tenの概念の説明が出てきた。顕微鏡の倍率を上げると、というような説明で。この辺の説明、というか書きぶりは福岡さんの説明があまりにも見事なので、僕はあえて触れない。
単なる鉄の展示を見ただけでなく、10年以上意味の分からなかったpowers of tenという概念に1日に2度であったという話。
まだ、続くかも
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