人は誰でも、心の奥に「わたしは足りていないかもしれない」という小さな不安を抱えて生きている。
だから、それを埋めてくれそうな“光るもの”を見つけたとき、私たちは無意識に惹かれてしまう。
お金を持っている人、影響力のある人、
自信にあふれて見える人。
そんな人を見ていると、
「この人のそばにいたら、何かが変わるかもしれない」
──そんな幻想を抱いてしまうことがある。
けれどそれは、その人が特別なのではなく、
自分の中に“まだ満たされていない部分”があるからこそ反応しているだけ。
つまり、“外側の光”に惹かれるとき、
本当は“内側の影”が求めているものを見ているんですよね。
見せびらかす人ほど、満たされていない
私たちが外側の光に惹かれるように、
“見せる側”の人もまた、内側の欠乏を埋めようとしている。
ブランドや地位、成功を誇示する行為は、
ほんとうの自信からではなく、
「認められたい」「すごいと思われたい」という
幼い願いから生まれていることが多い。
それは、心の奥にいる“小さな子ども”が、
「ぼくを見て」「わたしを愛して」と
必死に訴えているようなもの。
だから、どれだけ手に入れても安心できない。
いくら褒められても、心は満たされない。
満たされなさを隠すように、
また新しいものを求め、飾り、比べ、
“優越感”で一瞬の安堵を得ようとする。
けれどその優越感は、
裏返せば“劣等感”と同じ根から生まれている。
どちらも「自分は十分ではない」という思いの上に成り立つ感情だから。
本当の豊かさは、
何かを“見せつける”ことからは生まれない。
誰かに証明しなくても、
静かに満ちていられる場所にこそあるのだ。
惹かれるのも、嫌悪するのも“鏡”
誰かを見て「すごい」と思うとき。
あるいは「なんか嫌だ」と感じるとき。
そのどちらも、
実は“自分の内側”が反応している。
私たちは他人を通して、
自分の中にある「まだ癒えていない部分」や「まだ受け入れられていない部分」を見ている。
たとえば、
自由に生きている人に憧れるなら、
自分の中に“もっと自由に生きたい”という願いがあるということ。
反対に、見せびらかす人を見て嫌悪するなら、
「そんなふうに見せたら嫌われる」と信じて、自分を抑えてきた部分があるのかもしれない。
惹かれるのも、嫌うのも、
どちらも“気づき”のために現れている。
だから、外側をジャッジする必要はない。
ただ静かに、心の奥で反応している自分に気づくだけでいい。
そうして自分を知っていくたびに、
他人への見え方も変わっていく。
“眩しく見えた光”も、
“許せなかった影”も、
すべては自分の中にあったものだったと気づくとき、
心は静かに自由になっていく。
ほんとうの豊かさは、静けさと共にある
外側の光に惹かれ、
他人の影を嫌い、
私たちは長いあいだ、外の世界を通して自分を見つめてきた。
けれど、どれだけ外側を探しても、
心が落ち着く場所は見つからなかった。
安心は、他人の中にも、モノの中にも、
どこにもなかった。
それは、ほんとうの豊かさが
最初から“内側”にあったから。
静かに息をして、
何も持たなくても、何者でもなくても、
ただ“今ここにいる自分”を感じられること。
その瞬間こそが、
本当の意味で満たされているということなんだと思う。
誰かと出会うことも、惹かれることも、傷つくことも、
すべてはそのことを思い出すための道。
光も影も、すべてはあなたを映す鏡。
その両方をやさしく抱きしめたとき、
あなたの中に、静かで深い愛が広がっていく。
