ちなみに矢作俊彦と言う人は運転免許証を持っていないそうだ。裏情報でもなんでもない。本人が公に認めている。2002年7月14日付『asahi.com 作家に聞こう』でインタビューに答え、一度も免許を取ったことがないから公然と運転できないと言っている。さらに、
「隠したことは一度もない」
 とも言っている。
 免許は四回取りに行って、四回とも教習所の奴《本人がこういっている(爆)》と怒鳴りあいになってやめたそうである。また15~16歳のとき無免許で母親の車を全損させるという武勇伝もあり、そのせいで免許を取れない時期があったらしい。もっともこのインタビューを受けた時点で十四年運転はしていないと言っているから、さすがに常識はわきまえている点も我らがトシちゃんである。


 それはともかく、公然と運転できないわりには車を運転するお話がやたらと多い。
『舵を取り風上に向くもの』は全編車に関する小説である。この中でぼくがすきなのは『キューカンバ・サンドウィッチ』と『銀幕に敬礼』だ。とくに『銀幕……』がいい。フェラーリの疾走シーンは涙ものである。矢作俊彦が実際にフェラーリを運転したことがあるかどうか知らないが、ここは想像力の勝利だと思いたい。
 これはぼくの個人的な考えだが、想像力は芸術的な仕事に関わる人だけではなく、生きていくうえで必要不可欠なものだと思う。さらに言えば、想像力は豊な方が絶対にいい。はじまりがトシちゃんと運転免許のことだったからというわけではないが、車の運転にも想像力は必要だ。よく「かもしれない」運転を心がけろと言われる。最悪の状況を想定して運転をするということだ。最悪の状況を想定することは、つまり想像力の問題だ。映画『羊たちの沈黙』のなかでハンニンバル・レクターが幽閉の身で、クラリスを殺人鬼バッファロー・ビルへと導く最大の武器も想像力だった。手元にある資料からなにを導き出せるか。考えるということはつまり想像するということだ。


 また、少し話は変わるがだいぶ前『虚構の世界における男と攻撃性(原忠彦著)』という本を読んだことがある。その中で面白い指摘があった。どこの社会・文化でも虚構の世界がないところはないのだという。この場合の虚構の世界というのは「神話・民話・大衆小説」のことである。人は目の前にある現実だけでは生きて行けないものらしい。だから、
「おれは現実的な人間なのだ。だから芸術などというものにウツツヲヌカスことなどないのだ」
 と気取ってみても駄目である。人間は想像力に頼らないと生きていけないもなのだから。芸術、ことに優れた芸術は想像力を大いに刺激してくれる。つまり生きていくうえで必要不可欠な想像力のトレーニングになります。


 さて、我らがトシちゃんのことだ。
 とにかくこの人の小説は読むのに時間がかかる。もちろん、それはぼくだけのことかもしれない。たとえば仕事関係の資料を読むときなどは、けっこう早い方なのだ。事務的に書かれた文章なら、別に鑑賞する必要もない。必要なことが過不足なく書かれていることが望ましいわけで、それこそ、仕事に必要な部分だけをいかに早く見つけ出すかに神経を集中している。
 だが、文学となると、たとえそれが三文小説であっても話は変わってくる。ひとりの作家(一人の人間)の思考が形になったものだ。やはりじっくりと時間をかけて丹念に読むべきだと思っている。単に物語を追うだけではない。この作家はこの時なにを考えてこんなことを書いたのか、それを考えることも楽しい。小説というの、言ってみればどれもこれも私小説だと思っている。身辺雑記を書き連ねるばかりが私小説ではないだろう。自分の思いをある物語に仮託して語るのなら、結局、それも自分自身について語っているということになる――と、ぼくは思っている。


 ただ、そういうことを踏まえても、矢作俊彦氏の小説は読みづらい。あえて読みづらい文体で書いているとしか思えない(笑)。短文だから読みやすく、入り組んだ長文だから読みにくい、ということは絶対にない。言葉の選び方、前後の繋がり、文間の問題――そういったものを総合して、読みやすいか読みにくいか。文間という言葉をはじめて知ったのは井上ひさしさんの著作だった。
 しかし、読みづらい小説だから悪いと言うことは全然ない。商業的にはどうか知らないが、ぼく的にはまったくOKだ。中上健次氏の小説も読むのに骨が折れた。でも大好きだった。時間をかけてじっくりと一つの作品に付き合う。テレビにも映画にも、音楽にもない、それこそが小説独自の楽しみ方だという気がする。どうして速読が礼賛されて遅読を奨励しないのだろう。図書館で借りた本でもない限り、ある期間に読みきってしまわなければならないことはない。気が向いたときに読めばいいし、疲れたらしばらく放っておいてもいいのだ。


 我らがトシちゃんは時間をかけて小説を書くという。
 次はそのあたりのことを書いてみたい……って皆知っているかな(笑)。