「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」 | Luch Kolorita

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「サルトルとボーヴォワール」 2006年 フランス
監督 イラン・デュラン・コーエン
出演 アナ・ムグラリス, ロラン・ドイチェ他


20世紀フランスを代表する二人の哲学者、サルトルとボーヴォワール。
事実上のパートナーとしてほぼ50年間、互いに尊重し合い、支え合い、影響を与えあった二人。1960年代には「理想のカップル」として賞賛された二人の軌跡をたどる物語です。

後に実存主義を打ち立て、哲学者、小説家、政治活動家として活躍する天才サルトルは、1929年、同じソルボンヌ大学に通う才媛ボーヴォワールと恋に落ちます。

共に惹かれ会う二人ですが、サルトルがボーヴォワールに提案したのは、"お互いに将来も含め愛し合いながら、他の関係も認め合うという自由恋愛"でした。"ごまかしに満ちた小市民的な結婚"や"結婚か独身しか女性にとって選択肢が無い社会の伝統"に疑問や憤りを感じていたボーヴォワールは、戸惑いながらもこの提案を受け入れます。

以降、奇妙なパートナー生活が繰り広げられます。サルトルは付き合う相手をコロコロと変え・・・ボーヴォワールは自分の教え子とレズビアンな関係を持ち・・・そこへサルトルが加わり三角関係になったり・・・"自由恋愛"には、当然、苦悩がつきまといます。

後年ボーヴォワールには、ネルソン・オルグレンというアメリカ人作家の愛人ができます。オルグレンからプロポーズされた彼女は初めて、「妻になりたい」との思いを抱きますが、やはり最後にはサルトルとの関係を選びます。


そこまでしてなぜお互いのパートナー関係を続けるのか?


このストーリーに対しては、本当に様々な意見があると思います。

「ボーヴォワールは結局、愛ではなく、自分の社会的な立場を守った」
「そこまでして自由恋愛による契約結婚を貫く意味があるのか。一般的な結婚によるのと同じ苦悩や束縛を味わっただけではないのか」・・・等々。


私が感じたのは、ボーヴォワールはあくまでも"意識的に生きようとした"のではないかということです。そうせざる得ないものをずっと背負っていたように思えてなりません。

「意識」と「無意識」、「顕在」と「潜在」、「社会」と「個人」といったものが並べられた場合、後者の方へと向かう方向が支持を受けやすいという風潮を最近感じます。確かに「無意識に潜在している」ものに対する興味は尽きません。しかし、そういうものこそが真実の姿であるという考えには疑問を感じてしまいます。「顕在化している意識」も自分です。つまり、身も心も自分ですが、頭も自分だということです。

幸せには、個人的な恋愛感情で成り立つ部分もあれば、夢の実現のために社会性を帯びている部分もあります。彼女は、両方を見つめ、狭間で苦悩し、自分の道を切り開いた人だったように思います。


"恋愛"という枠を超えた内容を持つ作品です。見る機会がありましたら、どうぞ"最後の1行"までご堪能ください。





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