ULTRA BLUE/宇多田ヒカル
¥2,669
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久方ぶりにウタダを聴いた。

Distance 』は、ろくに聴かないまま部屋の

どこかにお蔵入り。『DEEP RIVER 』も結局スルー。

「COLORS」で少し見直し、でもまたすぐに低空飛行。

当然『EXODUS 』での全米デビューも他人事だった。


しかし、その間も彼女はただひとり、ひたすら

闘っていた。まるで安室奈美恵の轍を踏み、

せっかく得たと思った大切な家族を失っても...

(実際は両親から受け継いだ傷みだったけれど)


既にスタートダッシュから、ぶっちぎりで輝いていた

栄光は、だが彼女にとっては、地雷だった。

常に超え続けねばならない大きな壁。

メガヒットという過去の重圧。


謎の10代というベールに隠され、当時はめちゃめちゃ

クールだと思っていた、歌姫のその素顔は、実は

とても傷つきやすい、壊れやすさと幼さを纏っていた。

あの現代っ子風のタメ口でさえ、彼女なりの照れ隠しに今では聞こえる。


そして、つい最近耳にした「fly me to the moon」。

やはりウタダは、こういったスタンダードを歌わせれば、右に出る者はいない。つまり、歌自体が限りなく

巧いのだ。それでも自身のシングルやアルバムでは、

テクニックに逃げることなく、きちんと自分なりの色彩を試みる。


それは、ごくごく身近な人たちの日常を掬い取った、

あまりに平凡なテーマばかり。しかしだからこそ、

彼女はその手垢にまみれた「平凡」を巧みに掬い取る。

言葉遊びのような巧みな言葉使い、そして洗練された

ポップセンス。それこそがウタダのスタンダードだと

いわんばかりに。

昨年発売された『ULTRA BLUE 』まで、

この10年余り、発売されたオリジナルアルバムは、

たったの4枚。そこにもこの歌姫の苦悩が見て取れる。

常にトップの座に居続けなければならないというのは、

確かに酷く辛いことだと思う。常に世間の目と

話題に晒されている、彼女ならばなおのこと。


そのトップアーティストである歌姫は、まだ24歳。

ハートウォーミングなハスキーウィスパーヴォイスと、

特徴的な高音のビブラートも美しく無性に魅了された、

かつての洗練されたR&B調デビュー曲「Automatic」

大ヒット時には、なんと15歳。若い、若すぎる。

そんな彼女に多くを求めすぎることほど、

酷なことはないかもしれない。


20歳目前での結婚、そしてまさかの離婚...

何かを急ぐかのように、何もかもにおいて、

早すぎるその人生。いや、人生などというものは、

彼女にとっては、おそらくまだ始まったばかりだろう。


だからこそまだ多くの可能性に満ちているかもしれない

この歌姫の歩みは、ひたすら緩慢な気がする。

そう、一つ一つ何かを確かめるかのように...

元ちとせや一青窈などといったアジアンテイストの

個性派アーティストらが台頭してくる中で、この10年、

ウタダの歩みは、ただひたすら何かに耐えていた。


でもその中で彼女は、彼女らしい自身のスタンダード

というものを探索していく。そして案の定、シングル中心に生まれた珠玉の楽曲たちは、J-POPの荒波の中で、ゆるがない彼女という確かな地位とスタンスを作りあげてきた。


そこに見えるのは、やはりどこまでも傷つきやすい、

頼りなげなブルー。けれど彼女はまるで自分を

鼓舞するかのように、真っ赤なドレスに身を包む。

そして曇りない、真っ直ぐなその瞳―


いや。そう見えて実は、いつでも歌姫の心は

揺れていた。むしろ揺れているから、揺れ続ける

からこそ、彼女は歌い続けることができる気がする。

生きているという、血潮の朱(あか)みのままに。


誰かを愛し、愛されたいと強く願いながら。

それでも、ひとりであることに変わりない。しかし

独りであるからこそ、人はこうして自身を鼓舞し、

求める何かに向かって、黙々と闘い続けることが

できるのかもしれない。


その中で産み落とされ、抽出される生きた証―

某所で耳にした「Distance」(m-flowmix)にて

機械処理されながらも、人工的な楽器のような

そのキレイな囁きの響きに、この世界で生きる、

彼女の儚さ、だからこその美しさを見る思いだった。

その儚いきらめきが、たまらなく好きだ。




追記:

(この世界に不似合いなほど)どこまでも壊れやすく

傷つきやすいウタダが歌う、『ヱヴァ新劇場版:序』主題歌「Beautiful World」。上記「fly me to the moon」同様、某所で宣伝トレーラーを視聴した限り、

これほどのベストマッチはないように思う。


泣きたくなるほどの透明感。世界からの疎外感。

そしてただひとつ、"ここだけにある"真実...

無心に歌うウタダ、その歌声と一体となる耳と心...

孤独と残酷な愛しさと、だからこその世界の美しさと。


それだけで、劇的に映画の幕はあがる―。




Beautiful World / Kiss & Cry/宇多田ヒカル

¥1,260
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parkyongha  パク・ヨンハ待望の3rdアルバム『WILL BE THERE...』。よくも悪くも、期待通りの出来だったと思う。より成熟した大人のヨンハという、時前の謳い文句についても、それ以上でもなく、それ以下でもないといった印象。アルバム自体の購入時期が割と遅かったということもあり、とりあえずネットにての本作の評判をチェックしてみたのだけれど、ある意味予想通りというか、昨今の韓流ブームの火付け役のひとつを担っているパク・ヨンハ自身の熱烈なファンによるものくらいしか見当たらなかった。ということで、こちらでは独自の視点、かつ公平な判断と解釈によるレビューを心がけたいと思っているので、もしファンの方が読んで気を悪くするようなことがあれば、どうかご容赦願いたい。(とはいっても筆者自身、これでも少なくとも彼のファンの一人ではあるつもりなのだが。笑)


 日韓それぞれの作家たちによる、合同プロデュース。主に韓国側で楽曲プロデュースを手掛けている、イ・ギョンソプの功績は大きい。よい意味で、かつての'90年代以前の日本の邦楽ポップス~しかも男性ソロ・ヴォーカリストもの~の妙味を見事に再現しているように感じる。さらにそれに拍車をかけているのが、ほとんどの楽曲の作詞を担当したベテラン作詞家・松井五郎の存在。最初に聴いた時には個人的に、全体に少なからずの息苦しさを覚えたのだが、それさえもひとつの計算なのだとしたら、氏が提示する酸いも甘いも噛み分けた、これが大人のポップスということなのだろうか。


 元々かつての日本のアーティストの中で、安全地帯や玉置浩二を尊敬していたというヨンハ。昨年12月に先行発売された、彼自身が敬愛する玉置浩二が作曲を手掛けた『Truth』、そして今回のアルバムでは、これまでのシングルやアルバム曲の日本語詞を手掛けてきた(かつて6人目の安全地帯と謳われた)松井五郎が、今回本格的に楽曲全体をプロデュースする形で、その世界観をあますところなく披露している。ヨンハ自身の日本語歌唱力にも、さらに磨きがかかり、見事に抑揚の効いた数々の曲たちを無難に歌いこなしているのは確かに特筆すべきことだろう。(勿論、元々が彼自身、水準以上の歌唱力と表現力を備えている人でもあるのだが)


 それだけに憂慮すべきは、見ようによっては、与えられた楽曲、もしくは与えられた世界観を、ただそのままトレースしているだけのようにも聴こえてしまうこと。(こういう意見については、今後ヨンハ自身が日本という土壌で活動していく上で次第に克服していくべき点でもあるのだろうが)よくも悪くも、敬愛する日本アーティスト含め、豪華な作家陣に恵まれ、彼らが提示する作られた世界を(多少受身の態勢で?)歌っている。韓国人である彼が、昨今の「冬ソナ」を中心とした韓流ブームが今なお根強く尾を引く、隣国である日本で人気を博している―確かにそれ自体は大変喜ばしいことに思う。それはきっと彼自身の持つ、朴訥とした素直な人柄が最も功を成していることでもあるのだろうが、それだけにそこに一種の甘えが生まれてしまう危険性も? 下手をすれば、日本語曲をそつなく歌いこなす彼自身の器用貧乏さばかりがめだってしまう。


 どこか懐かしい感じのする穏やかなバラード。甘く切ない歌声。特に年上の女性の心をくすぐる、あどけない魅力を持つ彼だからこそ、もしかしたらそれは陥りがちな罠ではないだろうか。勿論だからといって、今すぐ骨太な性質のものを要求するわけではないけれど。下手に背伸びしたところで、パク・ヨンハはパク・ヨンハでしかない。逆に言えば、それが彼自身の持ち味であり、どこか行き過ぎて本当の居場所をなくした21世紀の日本という国で、忘れられた懐かしさや癒しなどを与えてくれるのが、韓国というバックヤードを持つ彼自身の本来の役割であるのかもしれない。それはきっと、音楽ばかりでなく広く文化的に過去の日本のよき財産を吸収し成長してきた、韓国という国を母国に持つ彼だからこそできることなのかもしれない。きっと彼は、過去の時代の日本からやって来た心優しい使者なのだ。


 全体的に過去に別れた女性をひとり想う、そんな切ないメロディの楽曲がめだつ。そこにヨンハの持ち味の包み込むような温かみのあるウォーム・ヴォイスが重なると、独特の温もりと湿り気を滴らせる色気が宿る。それはどこか、誰もが忘れ去ったような涙の味に似ている。確かにそれは、彼自身の敬愛してやまなかった希代の日本人ヴォーカリスト玉置浩二が、かつて若かりし日に持っていたものだ。たとえ今は、それをそのままトレースしているだけなのだとしても、彼自身の本物の夢は、いつかどこかへと辿り着き届いていく日が来るのだろうか。そのはてない思いをまるで裏付けるかのように、3曲目「Signal」と5曲目「Iron Weed」などには、若々しい彼だからこそ映える、まだ見ぬ未来へ向けてエネルギッシュに沸き起こる力を、その歌声に感じる。もしかしたら、本当はもっと自由でもいいのかもしれない。よい意味でも悪い意味でも、過去の亡霊に囚われるだけの彼でなくてもいいはずだ。...少しだけ、ほんの少しだけ、そんな風にも感じた。


 一曲だけ楽曲・詞ともに日本人スタッフ(作詞:川井聰・鳥海雄介/作曲・Jin Nakamura)の手による8曲目「Birds in Your Cage」にも、他の作品にはない新鮮さを感じる。かつて玉置浩二とともに、安全地帯の数々の伝説的な珠玉の曲たちを作りあげてきた松井五郎による今回の楽曲は、あいかわらずの一呼吸置いた冴のよさを感じさせる中にも、少々の息切れと煮え切らなさ歯切れの悪さ(あるいは迷い?)を残しているのを感じてしまうのは気のせいだろうか?これは実は以前から少なからず感じていたことだったのだが、パク・ヨンハ自身の素のキャラクターが、あの愛らしい笑顔にまず一番に象徴されているだけに少々落ち着きすぎる?いや、それさえも計算のうちで、そのギャップがよいのだと言われてしまえば、確かにそれまでなのだが(笑)。確かに彼も、もう20代後半。


 それでも、過去の懐かしさを歌うだけでは彼という人は惜しい―決して皆が望んだ与えられたものばかりを作りあげるのでもなく、ましてや既存のものを歌わされるのでもなく。なぜだか今の彼の歌からは、ほどよい彼自身の自然体な姿や空気感が感じられない...残念ながら、そんな気もする。『おんなじ絵を模写すような一日なら欲しくない...』 そんなことを、ことのほか感じるのは、彼自身があまりにも優しすぎる人だから...誰かの思いを伝える時代の代弁者でもよいけれど。もう20代後半?それとも、まだ20代後半?少なくとも彼はまだ、私には歳若いエナジーに満ちあふれた若者にみえる。その内側で躍動する本当の彼にはきっと、従順すぎるだけのあどけない優しさは似合わない。(現在の日本の音楽シーンがどこかに忘れ去った普遍的なよさが、確かにそこに大いにあることも認めながら...)


 Ps.あとひとつだけアルバムの内容以外のことで気になったのは、昨年のシングル『Truth』同様、今回のアルバムが通常版と初回限定版A・Bの計3種類が発売されたこと。どうでもよいことだろうが、その全商品を期限までに購入すれば、特製フォトブックが手に入るという特典付き。確かにファンならばすべての商品を欲しいと思うのが当然だろうが、そういう熱に浮かされたファン心理の弱みに付け込んで商魂逞しく...というツッコミは、もはや野暮?(笑)(しかし案の定ネットオークションでの諸々出品状況には笑うしかなかった)ファンだからこそ...というストイックさは、もしかしたら、あまり意味がないのかもしれない。


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zabadak さて、本当に久々の!レビュー更新。長らくお待たせしました?今回はちょっと毛色を変えて過去アーティスト(いや現在もまだいるけど)の登場ですが、あえて取り上げてみようかと思います。そう、あえて!今だからこそ熱く語れるそのユニットは知る人ぞ知る、その名もZabadak(ザバダック)。日本の邦楽界において、ある意味人知れず特異な分野に位置していた(エキゾチックジャパン?笑)独自のWorldwideな根源的音楽性を有した民族音楽系ポップユニット。あふれる思いをおさえ、早速いってみたいと思いまする...

久しぶりにCDを引っ張り出して聴いたZabadak。最初の音を聴いた瞬間、もーじわじわとアドレナリンが噴出するかと思ってしまった。まさに知る人ぞ知るZabadak。本当に彼らの音楽は、この人たちにしか作れない唯一のものなのだとあらためて実感した。筆者が初めて彼らの音楽の存在を知ったのは、某CD誌のリリース情報だった。その頃は社会人になって初めて勤めたばかりで経済的にも少々余裕があり、そうやってアンテナを伸ばした先に偶然彼らもいた...最初にCD店でみつけたのは、彼らにとって文字通りエポックメイキングな出世アルバムとなった『飛行夢sora,tobu,yume』。アイルランド録音のそれは、まだシンプルで荒削りながらも、後に彼らの音楽のエッセンスとしてかかせない、上野洋子氏の透き通るようなベビーフェイスのソプラノヴォイス、そして吉良知彦氏の少々ダークで内省的なヴォーカルやギターの音色が詰め込まれた、まさにZabadakならではの音世界が縦横無尽に繰り広げられていた。

ライブなどでも積極的に演奏されるエッジの効いたイントロが忘れられない「砂煙りのまち」上野氏の天使のような歌声が堪能できる英詞バラード「I AM...」今だからこそ心に深く陰を落とす、環境破壊をテーマとした「GOOD BYE EARTH」そしてこれもライブでの後半の歌いあげが印象的な「WALKING TOUR」と、Zabadakの肝ともいえる天才的な確かな音楽性を持つ吉良氏と上野氏の奇蹟とも思えるコンビネーションが、この時期すでに垣間見える。'80年代後半のデビュー当初は、松田克志氏を入れて3人組だったZabadak。


松田氏が脱退するまでの作品の中にも、後々ライブでも頻繁に演奏されただろうインストゥルメンタル曲「ポーランド」「Easy Going」「オハイオ殺人事件」そして「ハイド・イン・ザ・ブッシュ」「風の丘」「水のソルティレージュ」「チグリスとユーフラテスの岸辺」など、独特のセンスが光るZabadakらしさの楽しめる逸品は多い。歌詞など作品全体の雰囲気も、ひたすら気ままにファンタジック。どこか"ここではない彼岸"に意識がトリップしてしまうような日本人離れした面白さがある。


上野氏と吉良氏二人だけになってからは、そんな空想的幻想イメージ空間に、次第に確固とした形態やテーマが備わってくる。森や緑、風の心地よさや空や海の広さを思わせる歌の世界。それはある時は精霊など霊的なものさえ感じさせ、人もその自然の一部であることを思い出させる。そういった自然回帰、ファンタジックなイメージにあふれた美しく豊かな詩世界や、さらにそれらを単なる夢物語に終らせない深く渋みの効いたストーリー性に裏打ちされた、しっかりと地に足のついた芳醇な世界観に、彼らが彼らであった理由というものを、あらためて反芻し追体験したような気分になった...


そういった彼らの真実を、さらに確固としたものにしたのが、Zabadak中期の最高傑作アルバム『遠い音楽』。英詞曲、日本語曲といった言葉の境界線などないかのようなグローバルにして無国籍、多国籍な風情の遊牧民族的、音楽世界。なんというか、それらが自分自身の遺伝子に最初からしっかり組み込まれていたかのような、そんな妙なしっくり感... 彼らの独自の音色を聴くと、何か心の奥底に広がっている遠い海や森のようなものが無性に呼び起こされるのを感じるのだ。本当に今にして、Zabadakと出会えたことが奇蹟に思える。

案の定アルバム『遠い音楽』に収められた珠玉の名曲の数々を本当に久々に聴いて、まるで心が生き返るかのような心地を感じた。これまで眠っていた当たり前の憧憬(あこがれ)が、その忘れ形見のような音色を合図に突然息を吹き返す。冒頭一曲目
「満ち潮の夜」の斬新にして魅惑的なフォルクローレ調の楽器の調べ、そして上野氏の清らかで情感豊かなヴォーカルには、いつも魅了される。そして畳み掛けるように続く二曲目「夢を見る方法」では、メインヴォーカルを務める吉良氏の独特の真摯な問いかけに、まるで自分の心の声が、そのまま乗り移ったかのような躍動感を覚えた。


これこれ!コレですよ!そしてテンションが最高潮に達した所で、アルバムタイトル曲「遠い音楽」...共に口ずさむうちに、なぜか知らず熱い涙があふれてきたのが不思議だった。穏やかにすべてを包み込むかのようなその包容力に、今でこそ彼らの音楽が再び世に出るべきではないかとさえ思えてしまった。耳障りな雑音が多すぎる、この世の中で唯一静けさと豊かなこの星の息づかいに触れる術を教えてくれるような...そんな希(ねが)いのような、あたたかく清らかな歌声が、そこに響いていた。

実質的に筆者がZabadakに触れていたのは、最初の『飛行夢』と『遠い音楽』そして、これも気に入っているアルバム『桜』『私は羊』
。そして別レーベルから発売された初期の頃のベストアルバム2枚のみで、後に『私は羊』以降、通称「のれん分け」と呼ばれるラストライブを最後に上野氏が脱退して吉良氏のみになってからは、ほとんど聴いていない。結局あの二人がユニットを組んでいた当時のZabadakが、筆者にとってのZabadakであり、その珠玉の宝石のような瞬間が凝縮されたかのごとくの世界が好きだったのだなと、あらためて実感した。


アイルランドなど北欧的な民族音楽をベースとしたアコースティックな確固とした世界観。それは本当にZabadakというアーティストをZabadakたらしめていたと思うし、その斬新かつファンタジックなオリジナル世界に実に心惹かれた。しかしこれを機にもう一度、その後の吉良氏のソロにもトライしてみようか?どちらにしても、この二人が袂を分かってしまったのは本当に残念。(さしずめZabadakの根の部分であった吉良氏のみの現在のZabadakに、もう一度あの時のような花が咲く瞬間はあるのだろうか...


『遠い音楽』に収められた曲の中で他に「二月の丘」は、上野氏作曲による独特の軽快で躍動的な冒頭のリズムと、上野氏のサビでの情感あふれる歌声が非常に印象的。(Zabadakのほとんどの楽曲作詞を手掛けた小峰公子氏によるシンボリックな神話的世界も魅力的だ)それはラストを飾る、Zabadakの真骨頂とでもいうべき「harvest rain(豊穣の雨)」でも、圧倒的なカタルシスを感じさせるほどに強く魂を揺さぶり心の奥深くにまで迫ってくる。それに対して「愛は静かな場所に降りてくる」では、どこか神聖さまでも漂わせる静かな力を上野氏の透き通った歌声に感じる。


"治癒"をテーマとして作られたこのアルバムだが、民族系、遊牧系アーティストZabadakの持ち味である独創性や独自性が、これほどまでに昇華された歌の世界はないかもしれない。かと思えば、どこか軽快なリズムが楽しく微笑ましい童話風の楽曲「Around The Secret」では、あの『千と千尋』主題歌も手掛けた覚和歌子氏が作詞を手掛けていた。こういった西洋童謡風の楽曲は、後の『私は羊』にも一曲収められているけれど、そんな色んな引き出しがあるのもZabadakの魅力のひとつ。それらが、まるでひとつの地図のように、そんなZabadakワールドのあちこちに点在している。

『遠い音楽』の次回作アルバム『桜』でも、その独自の世界観にあますところなく魅せられる。こちらはタイトル通り、どこか日本的な風情があり、アジア版Zabadakとでも言うような新たな魅力にあふれている。特に宮崎県椎葉村を題材にした(正確には椎葉村の民謡であるトラディショナル・カヴァー曲)
「椎葉の春節」は、東・洋を問わない和洋折衷な奥深さが、その音楽性に介在していることを証明してくれた。(思うのだが、やはりZabadakにはアースカラーがよく似合う...)



特に上野洋子の美しいソプラノヴォイスにも磨きがかかり、「椎葉の春節」は勿論のこと、彼らの友人でもある新居昭乃氏が作詞を手掛けた「アジアの花」そして「Psi-traling」("霊的な痕跡"と訳されるらしい)では、その震えるような歌声の感性に思わず引き込まれる。どうやら間違いなく上野氏の歌声からは、森林浴時のようなマイナスイオン的癒し物質が放出されているようなのだ...もう、脳内でアルファ波出まくり(笑)。

間違いなくZabadakにおける"華"の部分を担当していた上野氏。しかしその上野氏を根っこで支えていたのは、縁の下の力持ち的な吉良氏であったことは、すでに言うまでもないこと。上野氏が光なら、吉良氏は影。どちらがリードヴォーカルを取ろうとも、その光と影の織りなす色濃い陰影が、当時のZabadakそのものを支え、それぞれの持ち味を巧みに引き立てていた。天使のような上野氏の透き通った歌声。そして渋みの効いた吉良氏の少々地味だが、あたたかみのある歌声。それら絶妙の光と影のバランスが、Zabadakを殊更に魅力的に演出していたのだ。二人の特異な作曲能力、様々な楽器を使いこなす演奏能力はいうに及ばず。それらが、どのジャンルにも属さない無国籍的な独特の魅力を醸し出した時、奇蹟は起こった...彼らの描こうとしていた音の地図は、どこまでも豊かな広がりを伴っていた。彼らの歌は音楽は、決して色褪せることのない普遍的な息吹を放っていた。

今にして、このZabadakという個性派ユニット、アーティストに久々に触れて思うのは、やはり以前、自分が好きだったものは、なんとなく自分自身の身体の隅々にまで沁み渡り、自分の血肉となっていたのが今でこそよくわかる。そして、どれほど自分が豊かなものに触れてきたのか、その奇蹟のような存在証明のような道のりが確かにあったことを、あらためて噛み締める。筆者にとってはZabadakも間違いなくそのひとつ。知っている方には懐かしい、そして知らない方には、ぜひ一度その心躍る魅惑の音世界の虜になっていただきたい...そんな思いが思わず湧きあがるほど、彼らの存在は確かにその場所で密かな水晶のように人知れず輝いていたのである。


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 玉置浩二約4年ぶりのソロアルバム『今日というこの日を生きていこう』は、安全地帯の復活・休止を経たあとに、作詞家・松井五郎を再び作詞に迎え、自作詞と半々という配分の元に、先行シングル「愛されたいだけさ」、昨年発売されたシングル「しあわせのランプ」のカップリング曲「7:30am」を加えた形となった。元々筆者自身、'80年代当時からの安全地帯のファンでもあったが、近年のベストアルバム『ベスト・ハーヴェスト』を除き、玉置浩二のソロアルバムを頭から一枚聴き込んだのは、実はこれが初めてである。なので、あまり突っ込んだことは言えないかもしれないから、アルバム全体の印象を伝えるくらいに留めておこうかと思う。

 一聴してみると、これが案外さらっと聴けてしまう。できるだけ細部にまで神経を行き届かせるために、イヤホンでもう一度しっかりと聴き込んでみる。すると、玉置氏自身の大らかなヴォーカル含め、全体的にゆったりと自然体で、かつ、さりげなく作り込んだ音作りがなされていることに気が付く。なごみ系、とでも言うのか、プレーンでナチュラルなギターサウンドが、聴いていて耳にとても心地よい。これは決して都会では作れなかった作品だったろうなあ、と思うと同時に、現在、妻でありパートナーでもある安藤さと子夫人と数匹の猫たちと共に、信州は軽井沢で暮らす玉置氏の穏やかな心象がくっきりと垣間見れたような気がして、とても柔らかな気持ちになった。これはまるで玉置版"優しい時間"?(笑)

 作詞に関しても、松井作品と玉置作品との作風の境界線があまりなく、互いに無理なく溶け合っていて、その中で玉置氏が、普段生活の中で感じているであろう、自然と共に生きている実感のようなものが、優しくやわらかく立ち上がってくる。何のてらいもなく、素直でストレートな言葉づかいで核心を描く松井作品と共に、玉置氏の作詞の表現力も、以前にも増して格段に向上したようで、素晴らしく自然に伝わる何かがある。両者ともに、優しさと、しなやかな力強さを同時に感じる。

 爽やかで等身大、素朴であったかい。少し濁りを含んだ歌声でもあるし、またときに「蕗の傘」など、まったりし過ぎな印象を残す作品も中盤にはあるが、それさえも歳を経たからこそ、表現することのできた穏やかさ、なのではないかと感じられるのだ。パチパチとはぜる焚き火を前に、ゆったりとした時間が流れていくような。。穏やかなギターの音色に、そんな情景が目に浮かぶ。あらためて軽井沢は、玉置氏にとって静けさが包む常世の楽園なのだと思う。

 "今日というこの日を生きていこう"という、決して大袈裟ではないが、明確なテーマを掲げ、ただ単に過ぎていく日々を惰性に見送っているのとは違う、確固とした胸中の意思表明を感じた。"これでいいんだ。僕たちは、これで生きていくんだ"という。生きていくということは、至極当たり前で平凡なことの繰り返しではあるけれど、実はその積み重ねが大事で、とても大切にしていきたいことなのだと、あらためて気づかせてくれた作品群だったかもしれない。

 かつて'80年代初頭、安全地帯としてメジャーデビューを果たした玉置氏ら5人の若きメンバーたち。確かに、玉置氏の作り出す珠玉のメロディと共に、当時のヒットチャートになくてはならない伝説的アーティストとなった彼らだったが、当時ヒットした歌謡曲風・シティポップス風のその作風は、彼らが本当にやりたい音楽と必ずしも一致するものではなかった。そして20年余りが経過した現在も、当時の作風を支持し復活を願うファンとの矛盾と葛藤は続いているようである。そんなファン心理とその思惑をよそに、何かに疲れたように、玉置氏は'90年代半ばから始めたソロ活動において、自身が望む形での音楽活動を黙々と続けてきた。その拠点もいつしか東京から軽井沢へ。そして傍らには常に、三度の結婚の末ようやくめぐり逢えた最愛の妻、さと子夫人が。

 そして一旦解散、活動休止となった安全地帯は'02年、待望の再結成を果たす。かつての同胞でもあった松井五郎氏を作詞に迎え、再びバンドメンバーが一堂に会した。しかし一見その再会は円満なものに見えたが、昨年('04)玉置氏の活動は、結局ソロに取って返すことに。再結成中に出した2枚のアルバムでは、「出逢い」などの名曲も生み出したが、その間、様々な試行錯誤や葛藤が見られ、再結成後2枚目の『Ⅹ』では、松井氏がアルバム制作から脱退、松井氏以外の作詞家(黒須チヒロ氏)起用での紆余曲折の再スタートともなった。

 某誌(婦人公論)でのインタビューにて、再結成時の安全地帯はソロに近い作風になったと玉置氏は語っていたが、実際、全盛期の頃の安全地帯からは考えられない程、作風が一変したと筆者も感じていたし、おそらくそれは、今後の(歳相応の)新生・安全地帯を予期させる、よい変化であったのだと信じてもいた。そして、今回のソロアルバム『今日というこの日を生きていこう』。一聴してみて、これからの玉置氏であり安全地帯は、ソロとバンドとの区切りが、それほど必要ではないのではないかという気さえした。今となっては、双方の明確な境目はあまり感じらず、そのことが暗示するのは、渋みを増し歳を経たからこそ得られた、新たな萌芽であるのだと。そこからは、かつて北海道・旭川でバンド活動を始めた当初の彼らの心境が、今になって、ありありと垣間見れるような気がする。原点回帰。あの頃、ひたすら純粋に清々しいものを音楽に求めていた音楽少年、玉置浩二のなくせない心情が。。

 静かな決意がひしひしと伝わる「明かりの灯るところへ」。眠れるファイティング・スピリットを思わせる「僕のすべてを」。何もないことさえ新しいはじまりにできると爽やかに歌う「風の指環」。穏やかな春の陽差しに"君"という人と共に歩けることの幸せを思う「ひかり」(本作は、盲導犬協会のテーマソングでもある)。そして筆者が最も心動いた「グライダー」では、あるがままに生きることの喜びを、まるで我がことのように感じた。その他、まるで玉置氏や安全地帯の行方を予感させる「夜行船」や、また、どこかかつての安全地帯の作風を思わせる「愛されたいだけさ」「UNISON」では、渋みの効いたギターと共に野性的な風情で聴く者を飽きさせずに惹きつける。どこか、何かを信じてみたくなるような、真実をそこに潜ませて。

 何かこれといった特別な仕掛けや大仰な感動があるわけではないが、全体を通して聴くうちに、遠赤ストーブ(はたまた炭火か)のように、じんわりしみじみと伝わってくる柔らかな温もりを感じる。それは既に、売れる売れないといった次元のすべてを超越しているかのように、どこまでもゆったりとした余裕とあたたかい安心感とに満ちている。まるで、あくせくした世の中や俗世の穢れとは無縁のもののように。。まさに、噛めば噛むほど心に沁みてくる、そんな良作に仕上がっている。

 よく熟成し発酵したワインのように、大人のバンド、またはソロ活動というのは、たとえ第一線から身を引いたとしても、そのよさは決して声高に叫ばずとも、自然と語り継がれていくものなのだと思う。ワカるやつなら、きっと解ってくれる。売れるモノだけが必ずしもよいものとは限らない。いつか近い将来、そのことを玉置氏は(安全地帯は)身をもって証明してくれるのだろうか。

 ジャケット写真などで、非常によい表情(かお)をしている玉置氏を見ていると、"やっとここまで辿り着くことができて、よかったね"と、純粋に祝福してあげたい気持ちになる。飾らない人柄が滲み出る玉置氏らしい、地味ながらも満ち足りた、とてもよい表情だと思う。


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 荘野ジュリ。関西出身の21歳新人アーティストである。ちょっと前にこのファーストアルバム「36度5分」を購入して既に試聴していたのに、実際にレビューを書くまでに、それなりの時間を要してしまった。それだけの深みと味わいを持つ作品だったのだろう。というより、新曲でアルバム冒頭の「カゲロウ」を聴いた瞬間、意識がどこかへトリップしてしまい、すっかり心が囚われてしまったというか、自分自身この曲に内面的にかなり打ちのめされてしまったがために、アルバム自体にも、無意識的にほんの少し距離を置いていたのかもしれない。

 アルバムは、松井五郎作詞の「カゲロウ」を除いて、すべて荘野ジュリ本人の作詞である。かの個性派作家・石田衣良からのお墨付きの、どこか『深いあきらめ』(by石田衣良)をまとった言葉の数々。ひどく自虐的で、どこか哀れなほど誰かの愛情と温もりを求めている。まるでずぶ濡れの捨て猫のように、気まぐれで強がりな表層とはうらはらな、剥き出しの痛々しさ。それらの感情を吐き出す、さらりと囁くような深みのある液体(エスプレッソ)のような、ハスキー気味の歌声が耳をくすぐる。これでもかと言わんばかりの苦痛だらけの思いなのに、泣き疲れたあとに目と喉元とがずんと痛むような、後悔と虚脱感ばかりの渇いた感情なのに、それでもすっと、彼女の歌声は心に入り込む。まるで、やわらかな薄闇に抱かれるような包容力で。その無駄のない鋭い集中力と、だからこそ余裕の表情をみせる歳に似合わぬ大人びた表現力が、中村仁による情熱的でスパイシーなブラジリアン・テイストやミディアムバラードなどの趣味(センス)のよい音楽と、心地よく絡み合い競宴している。無理のない、まさに"平熱"の日常感覚を、これほどまでに流れるような、さりげない心地よさで歌っている。

 アルバムジャケットの荒涼としたダークブルーの風景に、すっくと立つ一人の若い女性。彼女の歌声は、どこかUAやSadeを彷彿とさせるが、その強烈な印象を残す面差し強い眼差しが導く意思的な魂は、その音楽性同様、やはり確固としたモノを有しているものだけが持ちえた奇跡の産物なのだ思わせる。過去インタビューなどを読むと、やはりどこか普通の20代前半の若い女性とは違う、それらとは明らかに乖離した何かを感じる。厳しい父の元で育ち、いつも大勢の中にいるほど、たまらぬ孤独を感じたという彼女。それでも、その孤独な魂を救ったのは、歌うことだった。自己の生きる存在証明、渇望とも言えるべき衝動で何かを勝ち得るために、彼女の目の前に歌があった。だからこそ彼女の歌声は、これほどまでに洗練された響きを持ち、かつ何ものにも変えがたい力を内包しているのだろうか。私にはなぜか彼女の心情がよく解る。やはり同じ孤独を抱えて、でもそれなりに、自分自身として生きたくて。自分の居場所が欲しくて。心を惹きつける何かを強く求めている"同志"の一人だから、なのだろうか?おそらく彼女も。。

 実質3枚目の新譜「カゲロウ」で初めて、彼女荘野ジュリに触れた筆者。それは公式サイトのプロモ映像と共に、だった。「36度5分」のジャケット写真にも似た、イラスト風アニメーションの、どこまでも淋しく荒涼としたモノクロ映像。なのにとてもファンタジック。見たこともない花の咲く森、黒い鳥が舞うグレイの空。彼女の乗る汽車はどこへ向かって空中を漂っていくのだろう。そんな不思議な懐かしさに心慰められ、ひととき、そのやわらかな歌声に心をゆだねた。まるで唯一の友達のように、同じ孤独をそっと抱いた独りきりのゼブラ(シマウマ)に導かれ。。なんだかとても悲しいのに、流れる涙はあたたかい。ひとりぼっちなのに、誰かにそっと抱きしめられているような。。そんな錯覚に陥った。憐れみなんかいらない、そう強がりながら、無力で愚かな自分を思って、泣きじゃくった。ずるいくらい、夢想がさめるくらい、しっかりと確かにそこにある見えない存在に、抱きしめられながら。。

 アップテンポが投げつけるように、自虐モード全開でひた走る「駅ニテ」「ワタシヲミツケテ」「あげるのに」。生温いあきらめの日常がやさしい「アリジゴク」「負け犬の遠吠え」「オルゴール」。恋しいからこそ、ひどく憎い「マーメイド」「人形ラプソディ」「ツギハギ」。そして、極上のシルクの手触りが物哀しい「うたかた」「カゲロウ」。...『しあわせなら、いい。。』 彼女の歌声はなぜ、こんなにも無視できない引力に満ちているのだろう。UAよりは普通で、でもSadeよりも、ずっと息苦しく人恋しい。独特の、微妙な温度差で。"お願い、そばにいて。"それだけのありふれた感情が、これほどまでに心を惹きつける。嫌いになれないどころか、どこかとても自分に似てる。そんな思いを抱かせるのは、彼女の思いが誰もが持つ、とても普遍的な産物だから、なのか。何もないと荒んで泣いていた大地の片隅にも、ひっそりと小さな花が咲き始めた。平熱の平凡さを伴い、かつ深い包容力を抱く表現力を持った荘野ジュリ。―彼女はまだ、歌いはじめたばかりである。



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 現在(いま)から18年ほど前のある日、その"声"は、突然天から降ってきた輝石のように思われた。OVAアニメーション『ウィンダリア』主題歌「約束」を含む、ファーストアルバム「懐かしい未来」。どこか甘酸っぱく心をくすぐられるような、冒頭の一曲目「Ring Ring」の第一声は、私に新居昭乃というアーティストを、とてもさりげなく、しかし強烈に意識に記憶させたのだった。張りのよい伸びやかな高音。そして、どこかはにかむような、やわらかく微笑むかのような、独特の透明感のある囁き声。続く「月よ凍れ」そして、流暢な仏語を美しく品よく聴かせる「金色の目」(実はポプコン受賞曲)といい、彼女の歌声は、どうしようもなく私の心を惹きつけた。それはまるで月や太陽にも似た、あらがいようのない引力と言ってもいい。さらに、遠い場所に離れてゆく恋人に想いを馳せ、切ない心情を歌った「地図をゆく雲」、そして『ウィンダリア』挿入歌でもあった「美しい星」では、彼女の歌声、その存在が、この世に生まれ出た"奇跡"に近いものにさえ思われた。

 それからおよそ10年。様々なアーティストのコンサートツアーでのコーラス担当や、CM楽曲制作などを経た後、『ぼくの地球を守って』『マクロスプラス』など、幾つかのアニメーション作品に提供した楽曲で、彼女の歌声に触れたとき、あの瞬間の喜びと興奮が再びよみがえった。そして'97、それらをまとめたベストアルバム「空の森」が発売された。特に『ぼく地球(ぼくたま)』イメージアルバム収録曲でもあった冒頭2曲目の「遥かなロンド」には、思わず自身の中で、"あの新居昭乃が帰ってきた...!"と、静かに密やかに心躍らされたものだ。輪廻転生を扱った作品のテーマ曲だけに、どこまでも静謐で、どこまでも優しく、何度聴いても、その切なくあたたかな深い思いに、涙が滲む。彼女に初めて出逢ったあのときと同じ感動に、いやそれ以上のものに心が震えた。

 しかし意外にも、「懐かしい未来」当時の内容は、実は彼女自身、決して納得のいくものではなく、彼女いわく"歌わされていた"と言うのだから、解らないものである。「空の森」の1ヵ月後にリリースされたオリジナルアルバム「そらの庭」では、以前からPSY・Sコンサートツアーのバックバンド仲間でもあり、「空の森」収録の新曲「星の雨」などでも、既にコンビを組んできた保刈久明のアレンジ曲などで、新居昭乃本来の独自の音楽世界を紡ぎ出してきた。美しく壮麗でファンタジックそのもののベストアルバム「空の森」からすれば、少々地味で控えめな面が目立っただろうが、それは割と、彼女個人の日常から浮かんでくる、とりとめのない、けれど本人としては、とても大切な思いを散りばめた、必然的な作品世界だったのかもしれない。

 その後、オリジナルアルバムとして「降るプラチナ」、そして(筆者自身もとても好きな)、どこか懐かしく心躍るアンビエント系企画物アルバム「鉱石ラジオ」、さらにこれまでのアニメ提供曲を中心に粒揃いの逸品が集まったベストアルバム「R.G.B」と、'00以降それぞれの作品をリリースしてきたが、彼女の音楽の根はやはり、古くからあるシンガーソングライター気質そのものであり、英国アーティスト的風合いにも似た、ひっそりとしたアコースティック系列の音楽なのだろう。その作風は勿論、この9月に発売された新作アルバム「エデン」でも健在だ。どこかかすれたような、耳元で囁く歌声。それは決して、ハリウッド洋画的な大仰なものではなく、その歌声が奏でる"ファンタジー"は、彼女自身の内面にこそ宿り広がっている、とても密やかで、ささやかなものなのだと実感する。

 だとしても、彼女・新居昭乃のさらりとした清らかな歌声には、どこかに"神様が宿っている"(妖精の羽衣と言ってもいい)。どれほど、ありきたりな恋心を歌ったとしても、たとえその視線が当たり前の日常に寄り添っていようとも。。それは、「R.G.B」収録曲など、数々の作品テーマ曲として歌われてきた優れた楽曲を思い起こせば、一目瞭然である。彼女の歌声は、広がりと奥行きのあるファンタジーというシチュエーションでこそ、最大の力を発揮する。それがたとえ、書き割りに描かれたハッタリであったとしても。現在放送中のSFアニメーション『KURAU Phantom Memory』OP主題歌でもあるキャッチーな「懐かしい宇宙(うみ)」は、どこか以前の『ウィンダリア』主題歌「約束」の頃のような、うきうき感を彷彿とさせ、私自身やはり、とても好きなことに変わりない。どれほどポップに弾けようと、彼女の歌声は、その心のままに、どこまでも優しくやわらかいから―。

 「そらの庭」「降るプラチナ」「鉱石ラジオ」「R.G.B」そして「エデン」と、これまで彼女の歌声を、自由に変幻自在なものとして支えてきた、アレンジャーでありコンポーザーである、音の魔術師・保刈久明のさりげない手腕も見逃せない。デジタルであるのに、どこか懐かしい。まるでオルゴールのような、手巻きオルガンのような、呟くような独特の音色。そんなアナログ的手法で、不思議に懐かしい音像を聴く者の心に響かせ魅せる。その輝きは、まるで玩具の宝石のよう。かつての硬質なきらめきや気品よりも、少し控えめに囁く新居昭乃の声音に、そのビーズや模造パールの鈍い光が、なぜかとてもしっくり合い、懐かしい色彩を添える。

 特にオリジナルアルバム「降るプラチナ」からは4年ぶり、前作ベストアルバム「R.G.B」からは2年ぶりとなる、最新作「エデン」では、9・11.NYテロなどを経た上で、彼女の内面に新たに芽生えた感情、彼女の視点を通して見えた映像を、独特のナチュラルな表現方法で描いている。ありふれた日常の中で、彼女が大切に思う人たちや物事、ゆきかう人々や樹々の葉を揺らす風や、道端に咲く名もない小さな花にさえ。。音楽が心が、どこか遥かな遠くに届くまで。。同じ大切な誰かに届くまで。 『誰にも気づかれず咲いてる花のように歌えば...』そう、彼女・新居昭乃の音楽スタンスは、まさにこのワンフレーズそのものなのだ。そんな風にさりげなく当たり前に、自分を取り巻く世界の貴さを伝えていきたいと、彼女は切に願っているのかもしれない。そんなささやかな(手に届く)ものこそが、彼女にとっての真実の"エデン"なのだろう。

 とにかく歌詞もメロディも、すべてが密やかにさえずっている。まるで、冷たく透き通った朝の匂いを運ぶ大気のように。小さな小さな小さな...そんな風に静かに密かに聴こえるものに、そっと耳を澄ますように。大げさな音は何一つ要らない。そんな彼女の音楽に最適なスケールで、保刈の紡ぐギターサウンドが、ピアノの響きが、彼女の歌に共鳴し、音楽としての像(かたち)をそこに形作る。そして、その場所から"祝福(よろこび)"のように、いま、この耳に届く穢れない彼女の歌声。。彼女の声に触れていると、なぜかとても幸せな気持ちになる。それはあの時から、何ひとつ変わっていない。

 今は懐かしいあの頃、ひたすら誇らしげにさえ響いていた彼女独自の感性(センス)を抱いた歌声は、今はただひっそりと咲く草花のように、ただそこに在るだけで、とても感謝し満足している。そこに見えるのは、歳を重ねたからこその真実を得た、あの日と変わらぬ聡明な女性(ひと)の横顔。―そんな新居昭乃を、これからもずっと、静かに密やかに見つめ続けていきたい。

 

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 「元・グラビアアイドル」といえば、察しがつく方も多いかと思う。’00、かつて一世を風靡したグラビア界を去った青木裕子。あまたの男性ファンから惜しまれつつの引退、であっただろうとは思うのだが(一応女性である筆者は、グラビア時代の彼女について存在自体まったく知らなかったのは事実だ)、一昨年の12月のアーティスト・デビューの際のインタビューなどを読むと、実はグラビアは歌手としてのひとつのステップであり、この世界に入ったのも、音楽の夢へ近づく第一歩であったのだと。そこで、必ずしもグラビアの仕事は、自分自身好きでやっていたのではない、という本音が垣間見られた。ミスターチルドレンに憧れ、自らギターを操り、「ICY BLUE」というバンドを組みライブを行っていた時期も。

 そして'02.12月。その名も「Blue」というアルバムタイトルでの、満を持してのアーティスト・デビュー。プロデューサーに、松井五郎と中村仁という二大ビッグネームを迎え、人知れず自身の内面に渦巻く、どちらかといえばダークな音楽世界を大胆に展開している。CD付属のプロモーションDVD映像でも、その独自の世界を積極的にアピール。ある一曲「モノリス」では幻想的に美しく、またある一曲「路上ヘブン」では、アンダーグラウンド的で危うげなサスペンスタッチにて、その内側の破壊的ともいえる一面をさらけ出した。

 激しくギターをかき鳴らし、搾り出すように歌う、切なげなその表情は、どこか見ているこちらまで、息苦しくさせる。しかし不思議と嫌いになれない。いや、かえって、その突出した渇望的とも思える自己顕示の在り様に、否応なく惹きつけられるものさえ感じるのだ。それは、女性の筆者でさえ。いや、それは女性であればこそ?

 かつて、いたずらに胸元を強調され、"そこ"ばかり注目されてきた、ふくよかな時代の彼女とは一線を画したような、シニカルで鬱屈した少々排他的な、けれど堂々とした痩せたその姿。事実、グラビア時代をさりげなく揶揄するかのような一曲もある(「爪」)。一見、控えめで儚げに見えるようでありながら、その実、ある意味"唯我独尊"といった境地まで表現しようとするかのような、力強く揺るがぬ独自のunderworld。そのギリギリの一線で叫ぶ渇いた魂が、いまにも脆く崩れていきそうな、危険な美しさを醸し出す。

 だが、その強い磁力のまなざしは、まっすぐに新たな世界をめざしている。彼女がこう!と言えば、必ず従わずにはいられない、ある種、独善的、強制的ともいえる神秘性や魔力さえ、その純粋さの中に秘めていると感じさせる美女...その反逆的な瞳は、男の欲望を誘う切り取られた一部分よりも、ずっと魅力的で誘惑的だ。

 そんな彼女の姿を、女性心理を描かせれば他に並ぶ者のいないほど、自由自在に巧みに操る言葉たちによって、ケレン味あふれる世界に昇華させる松井五郎。そして、今年ヒットした柴咲コウ・アルバムなどでも垣間見せた、中村仁の幅の広い多種多様な音楽worldの一面がここにも。ある時はアコースティックなバラードに。そしてある時は、ハードロック調に。言葉ではなかなか上手く言い表せられないが、その音ひとつひとつに、注目すべききらめきが、独特のこだわりが感じられる、大人びた奥行きのあるメロディ展開、そしてアレンジ。そこここにあふれる様々な遊び心。

 松井五郎の倒錯に踏み込む一歩手前といった風情の実験的な歌詞も、楽曲同様に広がりのある行間を十二分に感じさせ、独自の美意識で魅了させる。それはそこにある、ただひとつの真実。それらの言葉が、まるで溜息のように、彼女の唇から発せられるその瞬間、異様な陶酔感が生まれ出る。そこにいるのは、儚さの中に強烈な破壊力を秘めた、愛に飢えた眠り姫...ある時は、傷つきやすい純真な乙女のように、そしてある時は、決して男に媚びることのない娼婦のように...

 まるで鋭い刃のように、よく切れる美貌の凶器。それは、ある意味理想的ともいえる女性像であるのかもしれない。そして、おそらく当の女性自身よりも、それらの切ない心理(おんなごころ)を深く心得ているであろう、洞察力と霊的審美眼を併せ持つ松井五郎の手腕が、ここに遺憾なく発揮されている。

 青木裕子自身のヴォーカルは、決して手放しで上手いというわけではないが、非凡な表現力を持っているのは、決して嘘ではないだろう。おそらくそれは、自身の深い想いに裏打ちされた魂の叫びであるからなのだ。確かに声量などに多少の不安は残るものの、彼女のハスキー気味に囁くような声質を活かした音運びがなされているのも、また事実。

 それだけ曲のひとつひとつが秀逸なのだ。捨て曲が一曲もないほど、まさに12曲すべてに、卓越した集中力が感じられる。「種子」「愚問」「モノリス」「造花のLily」「爪」「飴と鞭」「化石」「身分詐称」「路上ヘブン」...並んだ数々の曲名から喚起される以上のものを、聴く者を最後まで決して飽きさせない、ストイックでありながら絢爛とした魅力的な作品世界を展開させているのは、見事という他はない。

 これだけのものが"ここに在る"という事実に、一体どれ程の人が気づいているのだろう?...そう思ったのは一時の錯覚なのだろうか。お世辞にも出荷枚数もセールスも振るわず、それでも、いまだそこに存在し続ける音楽への夢。2年前に人知れず発売された、おそらく彼女にとって革命的なこのアルバムは、そのひとつの切っ掛けとなり得たのだろうか。それとも、あまりに完成された第一歩であったがゆえに、彼女自身が、その全精力を傾けて、超えねばならない重い十字架となってしまったのか。

 現在青木裕子は、都内ライブハウスにて継続的に、精力的に音楽活動を続けているようだ。が、いまだ新譜発売の報はない。しかし、ライブで発表しているというオリジナル楽曲が、彼女の未来を暗示しているであろうことは疑いようのない、そして、あらがいようのない事実でもある。

 彼女の、ぜひとも人生の金字塔を打ち立てたいと願う唯一の希(のぞ)みは、いつの日か叶えられるか。誰かに与えられたものより、作為的に生み出されたものより、それらが本来の光を放つとき、おそらく彼女青木裕子は、真実の意味での歌姫(ディーヴァ)になれるのだろう。


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 白鳥マイカ。シンガーソングライター・白鳥英美子の愛娘でもある。文字通り、その透き通るような天使の歌声は、母親ゆずりのサラブレッド。端正な英国トラッドの風を吹かせるようでありながら、しかしその実、そのストイックな音楽魂からは、どちらかといえば、母・英美子のものより、ずっと毅然とした逞しさを感じる。それは、彼女自身の抱えているテーマや、また、過去アルバム二作に渡ってプロデュースを手掛けている、根岸孝旨の骨太で、スケール感のでかいギターサウンドに裏付けられているからに他ならない。

 どちらかというと、心の暗い部分に重きを置いた、独特の赤裸々な歌詞。どこか繊細で陰のある、微妙な高低を繰り返す、巧みなメロディワーク。彼女白鳥マイカの歌声が、透明に透き通れば透き通るほど、切なく響き渡る、ドロドロとした人間の罪悪や醜悪な部分。そこには、甘ったるい愛や恋はない。

 それらの隠された場所に、声なき慟哭に光を当てるために、彼女の歌声は存在しているとまで、瞬間的に錯覚させる。根岸のギターサウンドは、その等身大の孤高の歌声に力を与える。純粋で、どこか痛々しいほどに研ぎ澄まされた羽を持つ天使は、自らの抑圧された心を、音楽の大きな翼にのせて、新たな地平へと、力強く飛び立たせようとしているかのようだ。

 おそらく自身が身をもって体験したであろう、これまでの人生の道筋が垣間見られるかのような、かざらない言葉の数々。そして自ら奏でるアコースティックギターの自然な音色。それら感情の発露や心のあり方が、ありのままに吐き出されているから、彼女の歌声や音楽性に、深く共感することができる。ときには、ストイックな英語歌詞で、そしてときには、柔らかなひらがなの言葉で。

 白鳥マイカは、無意識のうちに、この世に存在する痛みやよろこびや希望を、無防備に受信し発信する。その姿は、まるで感度のよい鉱石ラジオ。彼女は、自らの心身を通して、音楽を伝え響かせる生粋の巫女のようだ...

 「楽園」「遠幻郷」と、これまで発表されたアルバム二作は、どちらも期せずして?似通ったタイトルに。それは、彼女自身が親ゆずりの天性の歌声と感性をもってして、音楽という自己表現の先にめざす、豊かな世界を暗示しているのだろうか。けれどそれは、天上の清らかで無機質なほどの美しさとは、かけはなれた世界。一見地味だが、じっくり噛めば噛むほど味の出るような、渋みさえ感じさせる音楽世界には、下界の痛みや苦悩(くるしみ)や悲しみを知る、きちんと体温を持ったヒューマニズムがある。

 その体温は、大空を見上げることしかできない、脆く小さな人間のもの。そして、それらと共に、自由に真っ直ぐに生きるために、道をみまごうことなき豊穣の大樹が、しっかりと彼女の大地に根付いている。その汚れた大地に実った、瑞々しくも芳しい楽園の果実は、彼女の真実。不器用だが、決して彼女は、弱くはない。




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 坂本真綾というアーティストをご存知だろうか。平たく言えば、彼女は声優である。だが、決してその肩書きに埋もれてしまわぬ確かな個性、そして確固とした揺るぎない独自の音楽世界を持っているのが、実際の彼女自身でもあるのだ。

 元々は子役声優として、洋画などの吹き替えをしていた彼女であるが、'96当時、あるヒロイックファンタジーアニメ「天空のエスカフローネ」の主題歌を歌ったことから、その等身大の才能を音楽家菅野よう子に見出され、菅野の強力なバックアップにて、声優のみならず次第にアーティストとして、その独特の心地よい作品世界を形作っていくことになる。

 これまで多数のオリジナル・ベストアルバムを発表、特に昨年発売された「シングルコレクション・ニコパチ+」そして、久方ぶりのオリジナルアルバム「少年アリス」が、オリコン上位を獲得したのは、記憶に新しい。それらを聴けば、これまでの彼女の足跡、そしてその成長ぶりは一目瞭然だろう。(勿論、過去アルバム「DIVE」「グレープフルーツ」もしくは「lucy」などと聴き比べてみてもいい)

 特にこの「少年アリス」は、彼女自身の持ち味である、従来の飾らないナチュラルな無邪気さ・素直さに加え、どこか凛々しい少年っぽさとチャーミングな少女らしさがミックスされたような独特の雰囲気が、まさに的を得たようなこのタイトルをして、彼女自身の作品世界のコンセプトをそのままにあらわしているのが、なんといっても印象深いだろう。

 昨年から今年にかけてNHK「みんなのうた」でもオンエアされた、冒頭のシンプルなピアノ伴奏とシルキーで伸びやかな歌声が美しい「うちゅうひこうしのうた」。またそれとは打って変わって、どこまでも向かい風に勇ましく立ち向かっていく、彼女自身の決意の表れでもある「ソラヲミロ」。そして続く、岩里祐穂作詞の歌詞が熱く心を揺さぶる「スクラップ~別れの詩(うた)」。激しく鼓動を刻むドラム、かき鳴らされるギター、唸るベース。それらに勇敢に挑むかのような、どこか大人びた真綾の低音。

 この前半二曲の畳み掛けるような疾走感は、傷や汚れを剥き出しにしながらも、ダークなまでに、己の存在意義を問いかけている。地の底のようなダウンタウンを這う野良犬のように、苦い試行錯誤を繰り返しながら、どこかにきっとあるであろう眩しい明日を探し続けている。それは性別を超えて一個の人間として、彼女自身が見出した野生の奇跡。決して後ろを振り向かない、彼女なりの潔さ。「少年アリス」は、実は限りなく"ロック"でもあったのだ。(実際彼女は、矢沢永吉の濃いファンでもあったりする)

 これまで割とナチュラル系というか、どちらかというと、声優という側面もあってか"ファンタジーの伝道師"といった雰囲気を持っていた彼女だが、その殻を見事に破ったであろう本作「少年アリス」の作風には、彼女という一アーティストとしての、とても革命的な新しい息吹が伝わってくる。それもプロデューサーである菅野よう子の一つの目論見であり、試みであると思うと、とても心地よい新鮮な風圧を感じるのだ。それだけに、この二人の関係は、すでに切っても切れないものとなっている。サカモトをサカモトたらしめることができるのは、やはりやたらと趣味のいい、この"トチ狂った"(笑)オネエサン(大人子供ともいうw)ただひとりしかいないのだ。

 「ニコパチ」同様、ふんだんにバランスよく盛り込まれた英語曲も、もはや彼女の得意とする所となっている。いつのまに身に付けたのか、流暢な発音が美しく、そして歌自体のセンスの向上や、表現力なども格段に上がったと思える。おそらくそれは元々菅野よう子が、その確かな耳で多くの隠れた海外歌手の才能を発掘し、積極的に自作に取り込んでいたゆえんだろう。坂本自身も、度々その歌声を菅野名義のサントラなどでみかけたりする。その自然な鍛錬が身について結びついた、現在の素晴らしい成果とも思われる。

 坂本真綾は勿論、自身でも作詞を手掛ける。少なからずあるその才能は、すでに過去アルバム「DIVE」にて、その片鱗を見せていた。今回も前半の「ソラヲミロ」「まきばアリス!」や後半の「03」「おきてがみ」など半数を手掛けている。特に中盤戦を飾る「光あれ」は、小気味よい菅野楽曲と共に、坂本の等身大の弱さの中に芽生えた、不思議に生きる希望に満ちた真っ直ぐな力強さを感じて、思わず涙が出るほどの感動を覚えた。本当の癒しとは優しさとは、こんな風にそっと背中を押してくれる、気丈なあたたかさや勇気ではないだろうか。

 坂本自身が出演している、短編映画の様相を呈している杉森秀則監督のイメージDVD「03+(ゼロ3クロス)」のテーマ曲でもある「03」の深く静謐に心を満たす青い世界は、彼女の類稀なき豊かな表現力の一端を垣間見せた。そしてラストの「おきてがみ」。まさに朝まだき、そっと机の上に置かれた伝言そのままの歌詞、そして再びシンプルなピアノの伴奏。その中に、坂本真綾本人からの、切ないほどの物言わぬメッセージが隠されているような気がしてならない。「行ってしまうの?」思わずそう問い掛けたくなるような真実が、この最後の短い小曲にはある。

 彼女は、新しい大地をさがして、今日も明日も旅を続けていく。きっとそこに、真新しい彼女自身がいるから..."少年アリス"よ、大志を抱け!

筆者の書いた「少年アリス」全曲レヴュー


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