気持ちを言いかえると心にもなるので、大切にしなければならないものとされていますよね。
でもそれは、誰の気持ち(心)のことでしょう。
誹謗中傷、いじめ、戦争は、どれも気持ち(心)からはじまっているのでは?
国家間の問題である戦争は、気持ち(心)とかけ離れているように思われがちですが、ふたを開けてみると気持ち(心)に通じているところが多いように思えます。
気に入らない文化、国としての気に入らない対応などを阻止するために行う戦争と考えれば、そうなりますよね。
ちょっとした個人的な悪口からの誹謗中傷も、SNSで発信すれば、大きな言葉の暴力を生みます。
たった1人の心ない発言が大きなムーブメントを生んで、相手の逃げ場を奪い、精神的な死をもたらしてしまうこともあるのです。
いじめも同じで、マンツーマンで行っていようと、1対多で行っていようと、現実の世界に直結していればいるほどに、相手の精神を蝕んでいくでしょう。
誹謗中傷、いじめ、戦争のどれも、仕向けられた側が病んでしまうことが多そうですが、仕向けた方は、実はもっと病んでいます。
衝突を避けようともせずに相手にぶつかっていく行動は、自分の気持ちばかりを大切にした結果ですよね。
話し合いが大事と言いながら、相互理解を促すところまで会話をせずに、虫のいいことを押しつけようとするのはもってのほかです。
意見があわない。
趣味やセンスがあわない。
生理的に気に食わない。
そういうときは不快感を抱いてしまうことがあるでしょう。
でもそれはお互い様で、相手も不快さを感じているはずです。
そこを無視して、自分の気持ち(心)を押しつけるのはおかしなことでしょう。
人は親子であっても、この世に産み落とされた時から別の人間です。
親子でも他者なのです。
人権や民主主義と騒がれるわりに、自分の気持ち(心)が収まらないことを理由に暴れていては、他者を傷つけるだけになるでしょう。
声を上げる大切さが民主主義で人権を守ることというていで、自分の気持ち(心)を吐露することは、むしろ、逆方向に行ってしまうこともあります。
声を上げることが正しいのではなく、どういう声をどのように上げるか。
考えなしに自分の気持ち(心)を投げつけることは、糞尿を投げつけることと変わりはないでしょう。
自分の気持ち(心)のコントロールあっての、互いの尊重なのです。