昨日のバガヴァッドギーターに続いて、宇宙規模であり超個人的規模の話です。

ヨガ、瞑想、魔術、仏教……それぞれ異なるものですが、目指している最終目的は似ているか、同じものなのかもしれないなと思えます。座禅もヨガの1つですし、魔術でもヨガや瞑想を行いますものね。

ヨガ、瞑想、魔術、仏教……と並べてみると、ダントツに怪しい響きがあるのは魔術でしょうか。好きな世界観のある魔術ですが、ある意味、すごく損な気がしてきました(;'∀')

いずれにしても、邪念を祓って集中することは、悟りの世界に通じていくでしょう。

ところで、何年か前に何かの本で読んだ正岡子規の言葉があります。

「禅の悟りは、いかなる場合にも平気で死ぬ覚悟のできることだと思っていたのは間違いで、いかなる場合にも平気で生きていけることであった」

修行も信心もしていない私ですが、この一文を読んで、ハッとしました。悟るということは、欲や煩悩を捨てることという解釈から、「無を目指すこと=死を恐れないこと」だと思い、面倒なこの世を去ることは余裕だと思い、このとこは既にクリアしている課題だと誤った考えをしていたのです。上手く言葉にできなかったので、自分でも半信半疑の状態でしたが、正岡子規の言葉の如く、まずは生きることを受け入れて、どんな境遇になろうとも平気で行き続けていくことなのかもしれません。それがあってこそ、いずれ訪れる死の迎えが来ようとも、それを平然と受け入れることができるのでしょう。先走っていたということですね。

悟れば楽になるでしょう。けれど、それは逃げることとは別のことで、まずは現実を受け入れるということなのです。