先週土曜日に、「第7回日本リビングウイル研究会」に出かけた。
この会は、一般社団法人日本尊厳死協会が【終末期医療をめぐるさまざまな問題を、いろいろな分野で活動する方々、市民の皆さんにも参加していただいて討論していこう】と行う活動だ。
【単なる意見発表や意見交換会ではなく、いろいろな立場や見方から問題解決の糸口を探ろう】ということで、2013年から始まっている。
私は、第3回(2014年)、第4回(2015年)に出かけたことがあり、大変勉強になったが、ここ2年ほどは予定が合わずに行くことができずにいた。
しかし今回、なんとしても出かけようと思ったのは、そのテーマが大きな理由だった。
「終末期鎮静 〜苦痛のない最期を迎えるために必要か〜」。
ちなみに、終末期鎮静(セデーション)とは、
【治療を尽くしても取り得ない患者の耐え難い苦痛を取り除くことを目的に、患者の意識を限りなく低下させる鎮静剤を投与することです。がん患者の死亡直前の苦痛に対応する緩和ケアとして位置付けられています。だが、そのために患者との意思疎通ができなくなり、鎮静の実施は患者、家族、医療チームにとって難しい選択になっています。】
というもの。
6年前に亡くなった夫の時も、肺を病み、呼吸の苦しさもあって窒息死の恐怖を何度も訴える夫に対して、主治医が「絶対にそんなことにはさせないし、ならない」と太鼓判を押し続けてくれたのも、この医療行為の存在があったからだ。
ちなみに、夫は終末期鎮静を選択することなく、命を終えることになった。
そんなこともあり、終末期鎮静の存在そのものが、人生の最終段階を生きる(いわゆる終末期の)患者には大きな心の支えになると思っていた。
そして、死別後、複数の在宅医に話を伺っていくと、この医療行為は「自分は行ったことがない」「2回ほどあるが、失敗だったと猛省している」というものであり、特に在宅医療の現場では、ほとんど行われないものだと認識していた。
ところが。
2016年1月にNHKクローズアップ現代で放送された内容に衝撃を受けた。
放送直後に、 私が関わる日本医療コーディネーター協会の理事から、感想と意見を求めるメール。
ライフ・ターミナル・ネットワークのメンバーとも違和感をやりとりした。
「友達」に限られるが、fbにも自分のメモとして投稿した。
長くなるが、こんなことを書いた(一部抜粋)。
番組を拝見しての感想は、率直に言って、TVでこの段階の医療を取り上げるのは、時期尚早だったのでは?ということだ。
終末期の鎮静を取り上げるよりも前に、もっと緩和医療を深掘りした方がいいのではないかと思う。
つまり、「痛み」「苦しみ」に向き合う医療を。
「痛み」を映像で表現するのは難しいと思う。
特にこの段階の「痛み」とは、肉体的な痛みだけではないから……。
私は活字媒体育ちなので、映像表現の難しさをまるでわかっていないのだけれど、それでも、冒頭の患者さんが「痛い痛い」と苦しむ映像は、がんで家族を亡くした経験のある私ですら、恐怖でしかなかった。
続いてこの後に紹介される終末期鎮静という医療を、いくら「最後の手段」という前置きで説明されていても、「痛みか死か」の、単純な二者択一のようにしか受け取れなかった。
スピリチュアルペインへの対応に触れる映像もあったが、あまりにも軽く、さらに浅く受け取れてしまったのも残念だった。
緩和医療、緩和ケアをもっと丁寧に紹介してもいいのではないだろうか。
「痛み」に向き合う医療が一体どこまで進んでいるのかも。
そして、薬では取れない「痛み」もある、ということも。
加えて、その「痛み」に向き合うための、さまざまな知恵や経験なども。
こここそが、在宅医療を受けようという人には特に、役に立つ情報なのではないだろうか。
そして、さまざまに行われる緩和医療、緩和ケアをしっかり伝えないままに、終末期鎮静だけが広まってしまう不安を感じた。
これでは……、安楽死と変わらない、と感じる人が出てきてしまうのではないだろうか。
経験のない方にはなかなか想像しにくいと思うけれど、「痛みの中で苦しみ抜いて死ぬのは嫌だ」という恐怖に対して、「絶対に大丈夫。それだけは絶対にさせないし、そうならない」という医療者からの力強い断定、約束は、それが繰り返されるたびに、どれほど本人にとっての「痛み」を和らげることにつながっていくか……ということも、もっと知られた方がいい。
つまり、終末期鎮静は、簡単に選択される医療ではない、ということです。
そして、この終末期鎮静に至るまでには、さまざまな緩和医療、緩和ケア、あるいはスピリチュアルケアが存在する。
ここを一足飛びに省略しての「終末期鎮静」は……、金子の主治医の言葉を借りれば、“品のない医療”ということにならないだろうか。
死ぬ寸前まで人は生きている。
その「生」を支えるのが、医療。
終末期鎮静は、死を選択するものではなく、どうやっても取れない「痛み」を緩和するために存在する医療であることが、もっとしっかり伝わってほしいと思った。
第7回日本リビングウイル研究会では、この放送のことにも触れ、配布資料でも【国内での議論は深まっているのでしょうか】と訴えていた。
しかし。
終末期鎮静よりさらに進んだ、安楽死の是非についての議論が始まりそうな空気もある。
折りよく、ライフ・ターミナル・ネットワークにも協力いただいている方から、こんな記事も送られてきた。
苦痛への対応を専門とする緩和医療の医師は、この放送の私の感想と同様に、緩和医療、緩和ケアについて十分に理解されていないのにも関わらず、「苦痛が取れないのなら、自ら死を選ぶ」となってしまう選択には、大きな抵抗感があるはずだ。
これは、在宅医も同じだと思う。
「何をしても取れない苦痛」に対しては、安楽死の選択の前に、まだまださまざまな医療やケアがある。
つまり「何をしても」の「何」を、本当にやり尽くしているのか、ということだ。
そもそも「苦痛」には、身体的苦痛ではない種類のものもある。
そしてその「苦痛」に対して、どこまで医療が介入するのか・できるのか、という問題もある。
例えば、命の限りが見えてきた患者が訴える「苦痛」は、死に対するものもあるが、残していく家族への思い、子供がまだ小さければその教育環境についての悩み、家族の不仲、借金、相続、事業などなど、非常に複雑で、しかも絡み合い、そして多岐に渡っている。
私も多くの方から話を伺ってきているが、その「苦痛」を分野ごとに綺麗に分けて説明できる人など、まずいない。
もちろん、私の亡くなった夫もそうだった。
「生きる」ことを考えてみてほしい。
私たちの生活は、そんなにシンプルな構成だろうか。
まして、人生を重ねてきていたら。
家族の問題ひとつとってみても、配偶者、子ども、親戚…と突き詰めて見ていけば、「みんな仲良し、ハッピー家族!」と言い切れる人など、実はかなり少ないのではないか。
まして、その人がまもなく亡くなろうという時、どれほど仲の良い夫婦であっても、兄弟姉妹であっても、驚くほどに考えの違いが浮き彫りになってしまう。
長年に渡りずっと介護を続けてきた両親が「もうこれ以上は」と、超高齢の親に対して治療の中止を決断したところ、同居もしてない孫である医療従事者が「おじいさんを殺す気か!」と主張し、中止が撤回された話を伺ったこともある。
たとえばこんな風に、終末期鎮静、安楽死を云々する以前に、家族間であっても、死の捉え方に違いが出てしまうことをわかっていない人も多いだろう。
まして、「自分の死」と「家族の死」で捉え方が異なってしまうことを自覚していない人も多い。
自分には延命治療など要らないが、家族にはやってほしい、という人もいるだろう。
自分の意思を尊重してほしいから、もし逆の立場だったら家族の意思も受け入れるという人でも、ではその「家族」が、まだ10代20代の自分の子どもだったらどうだろうか。
ちなみに、本人の意思が尊重されることは、厚生労働省のガイドラインにうたわれているが、本人の意思が何をしても優先されるとは法律で担保されていない。
でも、たとえ担保されていたとしても、その人の死後、その意思を尊重した医療関係者や家族がそれに反対した人間から訴えられる可能性もゼロではない。
大切な人の死は「法律で認められているから」という理由だけでは、とても受け入れらないほどの衝撃だからだ。
その強い感情が、提訴というかたちに表れる可能性も考えられるだろう(実際にある)。
こんな風に、本人の意思をどうするかということに対してでさえ、家族のことだけでも、簡単には答えが出せない。
だから、テーマの切り口として、終末期鎮静や安楽死を取り上げるのは構わない。
でも、まだその是非を議論するまでには、その手前にある死のことが語り尽くされていないと強く思う。
というわけで、死の問題について、医療関係者だけが死の問題を引き受けることには、かなりの違和感がある。
長年に渡り確執のある家族の問題に対して、病気になってから付き合いの始まった医療関係者だけで本当に解決できるのだろうか。
借金や離婚、残される子どもの教育環境について、医療関係者だけで対応できるのだろうか。
もっと言えば、その人が亡くなった後、残された人たちに医療関係者はずっと関わり続けられるのだろうか。死別後の人生はずっと長いのに。
「死の前」だけを考えていると、「死の後」のことがおろそかになる。
たしかに、死の近くにいけばいくほど、その時間は味わったことのないような深くて濃い時間となる場合が多いと思うが、でも、それですべてが終了となるわけではない。
死を大きな区切りとして、その人に深く関わる人たちの人生は、また新たに始まっていくのだ。
私が信頼する医者は、「医者の領分」ともいうべきものをわきまえている、といつも感じる。
というか、私は、その人の人生に対して、「ここから先は入れない・入ってはいけない」という境界線をはっきりと持っている医者を信頼する。
なぜなら、その人たちは「医療の限界」をわかっている、と思うから。
そして、そういう医者はほぼ間違いなく、優秀なチームをすでに構築している。
自分の限界を知り、医療の限界を知り、手が届かないところをフォローしてくれる他業種・他業界の人とも連携している。
自分がすべてを担える、自分がすべてを仕切っている、という、言ってみれば奢りとか承認欲求というものを持っていない。
リビングウイル研究会では、会場からの質疑応答も行われた。
リビングウイルに対して、なぜ法律で担保されていないのか、法制化してほしい、と訴える参加者に対して、壇上の医師が「それ以前に、ご家族とよく話し合ってほしい」と答えた。
すると、その人は「私には、家族がいない」と。
でも医師が「そんなことはないでしょう。財産の問題もあるだろうし、どこからか遠くの親戚が出てきますよ」と返した。
しかしそれに対しても、「私の財産のことなんて、あなたに言う必要はない!そんなことはあなたには関係ない!」との反応だった。
笑いを誘うやりとりではあったが、実は私たちの方こそ、自分が抱える問題を分断し、面倒なことは切って捨てて、死ねばOKとばかりに「なかったこと」にしているのかもしれない。
でも残念ながら、多くの問題は死んでも「なかったこと」にはできない。
そしてその問題は、医者だけにすべてを預ければOKとはならないことがほとんどだろう。
だから死について、医療関係者や宗教者だけに担わせることに違和感がある。
専門家には領分があり、いくら専門家でも、いくら死に近くても、自分の奥底には自分以外誰も入れないことを、私たち自身が理解していなければならないと思う。つまりは「どうしても自分でやらなければならないことがある」ということだ。
そしてそれこそを、私は「尊厳」だと理解している。
(*【 】内は当日配布された資料より抜粋)