はい、というわけで当時から技術大国だった日本において、
「何故、ガレオン船が大量生産されなかったのか?」
は非常に謎であり、歴史のミステリーであります。
記録に残る僅か数隻だなんてホントに勿体無い。
秀吉の朝鮮出兵の際に大量投入出来れば、どれほど戦局を有利に出来たかと思います。
私的な見解としては、秀吉と家康での政権下での違いかと思います。
小早川隆景は日本有数の水軍大将だったと思います。
毛利元就の三男にして、毛利輝元の叔父。
瀬戸内地方から九州地方の水軍の民を、武力ではなく、知略でまとめあげた秀才です。
秀吉が天下統一した後には、毛利輝元と共に「五大老(本当は五奉行)」に選ばれています。
しかし、彼は秀吉よりも早く亡くなり、隆景の仕事は、上杉景勝が五大老に選ばれます。
そして秀吉は最期まで盟友・前田利家に息子ね豊臣秀頼を託して亡くなり、この時点で朝鮮出兵は終わります。
そして利家の死でそれまで均衡が崩れ、関ヶ原の戦いと、毛利元就の大阪城退去で江戸幕府と徳川将軍家が始まりました。
家康は支倉常長をガレオン船に乗せたり、ウィリアム・アダムスに造船を命じたりしました。
しかし、これは将軍、または大御所としての「勅命」なんですよね。
つまりは小早川隆景の死後、政権中枢に有力な水軍大将が居なかったからかなぁ?と、考えてしまいます。
前述の通り、日本は大昔から将軍個人で何でも勝手に決められません。支倉常長もウィリアム・アダムスも限りなく「家康個人の付き合い」なんですよね。
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徳川家光の時代に鎖国は成立しましたが、昔読んだ書物には、
「徳川家光がガレオン船の造船方法を、スペイン宣教師に尋ねたが、スペイン総督府はこれを頑なに拒否したことが鎖国の引き金になった」
ともありました。
日本の金銀が奪い尽くされる略奪貿易と、キリシタン一揆未遂の謀反人・大久保長安の処刑等が鎖国の引き金になったのは間違いありません。
しかし、当時の日本は有数の「鉄砲大国」でした。
国友鍛冶や堺商人、根来衆など、「南蛮貿易ではない国産の鉄砲」は既に製造可能だったのです。
信長は長篠の戦いで3000挺の鉄砲を使用しましたが、その内500挺は国友鍛冶が製造した銃です。
歴史の授業では「当時のポルトガル人は最新のマスケット銃ではなく旧式の火縄銃までしか教えなかった」と習いましたが、逆にマスケット銃は重すぎて三脚がないと撃てませんでした。
続