エゴ=利己主義ではないということ 1 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
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自我を持たない「いい子症候群」の大人たち


「いい子」は社会問題だと思います。
もっと公に議論されていいと思います。

「親の顔色を窺って、親を喜ばすことだけが自分の存在意義」

「テストの点数だけが自分の評価」

何だか毎日の様に聞く話ですね。

しかし、蛇足ながら説明させて頂きますと、自我=「人間らしい心」とか「人間らしいワガママや自己主張や主体性」ってわけではないのです。

「自我=エゴ」

これがフロイトからユングの系譜となる心理学と精神分析の基軸です。

心理学の単語としてのエゴとは利己主義ではありません。

「多数の人間が困ってても、自分の取り分以上に占有する」

とかではありません。

エゴとは「葛藤」なのです。

その葛藤とはes(エス)という「本能」から来るものです。

近年では本能という単語は使わず「生得欲求」という呼び方する場合もあるそうです。

エゴとはesが生じた時に「やりたいけど出来ない」時に発生する葛藤なのです。

空腹というes(本能的な欲求)は、自分の意志とは無関係に発生します。
しかし、空腹を感じた時に滞りなく食事が出来たら、エゴは発生しないのです。
ここが重要なのです。
そう、食べたくても食べられない環境に置かれた時に、

「もう少し待とう」とか、「少し時間がかかるけど買いに行こう」

とか、「妥協案」とか「折衷案」が頭に浮かびます。
これを

「スーパーエゴ」

と言います。「欲求」に対する「葛藤」の結果として生み出された「解決」
このスーパーエゴが大事なのです。


私が思うに、「いい子症候群」は

「最初から正解を教え過ぎる」

が原因なのでは?

と思ってしまいます。

「葛藤」を経験しないままに、最初から与えられ続けるから、手に入らなかった時に対処出来ないのでは?
と思います。

あと、幼い時に肉体的、または精神的に衝撃的な体験(必ずしも虐待ばかりではありませんが)をしてしまうと、幼い子供は自分を守る術がない為にたった一つの選択をしてしまいます。

「これは自分じゃない」

と、辛い目に遭遇している自分に対して、もう一人の自分を作り上げることで

「私に似たこの人、こんな目に遇って可哀想だね」

と、他人事だと思い込むことで自分を守るのです。

これは幼い時ほど、はっきりと人格が分離していく傾向があります。
一つの丸い玉が二本の棒に枝分かれするようなものです