忍耐と断念 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

※以下の文は19世紀に生きたキルケゴールが書いたもので、この著作のあとでキルケゴールの代表作「死に至る病」を書きました。
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現代では、ほとんど全ての者が紙と机の上では威風堂々たる人物なのだから、しばしば、どこにも場所を持たないような心配にかかずらわっている。
(中略)

既に三十歳くらいになれば、時間潰しの為になすべきことがないかとあれこれ苦慮するものである。
とくに
「トランプ遊びを習っておかなかったので、自分の年のことばかり気にわずらわずにおれなかった場合」
にはそうである。
それと同じように、全てを断念するといえば、それだけで全てが片付いてしまう。
全てを断念するのは途方もない抽象だと人は言う。そうだから、なにものかに執着するところまで更に進まなければならないということになる。

しかし全てを断念することが課題となる場合、なにかある具体的なものを断念することからはじめるということになればどうであろうか?

教師にとっては嫌悪すべきことであるが、学校では一般に凡庸の生徒がよくやるのを見かけるのは、課題が出されて10分も経つか経たないかのうちに答案用紙をもってかけ出してきて、

「僕はもう終わりました」

と言う場合のように、人生においても凡庸の人間は直ぐに駆け出してきて、終わってしまう。
つまり課題が大きければ大きいほど、それだけ迅速に終わってしまうのである。
(中略)
聖書は、罪人に対する神の忍耐は計り知れないと語っている。
しかし、すぐに終わりにしてしまうこのような人間達と関わりをもつことは、天使の忍耐をもってしても出来ない相談である。
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キルケゴールは「死に至る病とは絶望である」

絶望することにより、「どん底」を味わい、失い、諦め、はじめてスタートラインに立てるってことです。

また
「古代ギリシャのデルフォイの神殿に『ゆき過ぎを慎むべし』とあるが、宗教を嘲笑するものは呪文のようにこの言葉を繰り返す。
それはこの言葉はキリスト教とのあらゆる関係を断ち切るのに最も機知に富んだ言葉だからである。だが宗教を嘲笑する者が一般的にいってせっかちで、間抜けである場合が多いからである。

「絶対概念」は答えを出すのではなく、比較対象として「結論を先送りする」為に必要なのです。
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大切なのは学んだ結果じゃなく、学ぼうとすること。(終)