キルケゴール全集9巻より
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私が観客として舞台の情景、舞台の月光に魅了されて、非常に気持ちの良い夕べを過ごして家に帰るというのは、美的には全く正当である。
しかし倫理的には、私自身の変革以外のいかなる変革も存在しないのである。
倫理的には終始一貫して、本質的に実存している者の最高の激情は、美的にはもっとも貧弱な観念な過ぎないものに対応する。
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はい、まだわかりやすい文章だと思います(笑)。
美しい舞台を観終わった時の気分は最高ですよね?
帰り道も違って見えるでしょう。
ここでの「美的」は「芸術的に素晴らしい」と解釈しましょう。
作品の美しさで相手に感動を与え、観る者の世界観を変える。
創作家、表現者に取ってこれほど自己を肯定される喜びはないでしょう。
しかし、これは芸術の観点からです。
倫理の観点からはどうでしょう?
「心」の問題です。
そう、「美しき帰り道」は実際には変化していないのです。
確かに以前より美しい心を持つようにはなったでしょうが、明らかな「変化」はとても小さなものなのです。
哲学や心理学で最もよく聞かれるのが
「何の役に立つの?」
です(笑)。
美的(詩的)に応えるなら
「より良い『心のあり方』を模索するため」
と私はいいます。
倫理的には
「その答えが出る時は、私の命が尽きる時だ。」
と応えるでしょう。
そしてキルケゴール流のイロニーを継承したと自負する私の応えとしては、
「何の役に立つかだって?
今、君にその質問させる為さ。」
と言うでしょう(笑)。
また、キルケゴールは
「信仰の英雄を讃えた詩人は、その詩が美的に評価されるのみであり、詩人が信仰者として倫理的に讃えられたわけではない。」
とも述べています。
叙述の優劣と倫理的な尊さは別問題です。
また、キルケゴールは
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「倫理的なものは、いつもとりわけ理解しやすいのである。
おそらくは理解するのに時間を浪費せず、直ちに実践をはじめることが出来るほどである。
ただその代わりに実行するのが非常に難しいのである。
しかも賢明な者に取っても、単純な者に取っても難しさに変わりはないのである。
というのは、難しさは「理解する」という点にあるのではないからだ。
そうでなければ、賢明な者は非常に有利な立場に立つことになるからである。
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倫理的に素晴らしいことは当然のことを実行すること