美と倫理 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

キルケゴール全集9巻より
****

私が観客として舞台の情景、舞台の月光に魅了されて、非常に気持ちの良い夕べを過ごして家に帰るというのは、美的には全く正当である。
しかし倫理的には、私自身の変革以外のいかなる変革も存在しないのである。
倫理的には終始一貫して、本質的に実存している者の最高の激情は、美的にはもっとも貧弱な観念な過ぎないものに対応する。
****

はい、まだわかりやすい文章だと思います(笑)。

美しい舞台を観終わった時の気分は最高ですよね?
帰り道も違って見えるでしょう。
ここでの「美的」は「芸術的に素晴らしい」と解釈しましょう。
作品の美しさで相手に感動を与え、観る者の世界観を変える。
創作家、表現者に取ってこれほど自己を肯定される喜びはないでしょう。
しかし、これは芸術の観点からです。

倫理の観点からはどうでしょう?
「心」の問題です。

そう、「美しき帰り道」は実際には変化していないのです。
確かに以前より美しい心を持つようにはなったでしょうが、明らかな「変化」はとても小さなものなのです。

哲学や心理学で最もよく聞かれるのが

「何の役に立つの?」

です(笑)。

美的(詩的)に応えるなら

「より良い『心のあり方』を模索するため」

と私はいいます。

倫理的には

「その答えが出る時は、私の命が尽きる時だ。」

と応えるでしょう。

そしてキルケゴール流のイロニーを継承したと自負する私の応えとしては、

「何の役に立つかだって?
今、君にその質問させる為さ。」

と言うでしょう(笑)。

また、キルケゴールは

「信仰の英雄を讃えた詩人は、その詩が美的に評価されるのみであり、詩人が信仰者として倫理的に讃えられたわけではない。」

とも述べています。
叙述の優劣と倫理的な尊さは別問題です。

また、キルケゴールは
****
「倫理的なものは、いつもとりわけ理解しやすいのである。
おそらくは理解するのに時間を浪費せず、直ちに実践をはじめることが出来るほどである。
ただその代わりに実行するのが非常に難しいのである。
しかも賢明な者に取っても、単純な者に取っても難しさに変わりはないのである。
というのは、難しさは「理解する」という点にあるのではないからだ。
そうでなければ、賢明な者は非常に有利な立場に立つことになるからである。
****

倫理的に素晴らしいことは当然のことを実行すること