人間の弁明とは、ある瞬間に一切を知っている様な話し方をしながら、その裏をかえせば実はしらないで喋っているのである。それ故に、問題性やそこに根ざす諸難問について心を悩ますことは、変人の愚行とみなされるのだ。
誰でも知っている事実を、ことさら問題視しようとするからである。つまり誰も知ってはいない特殊知識(ディフェレンス・ヴィーゼン)ということであれば、これに心を傾けるのは、輝かしい営みである。しかし、誰でも知っていることとなると、これを如何にして知っているかという悪ふざけじみた方法論議でやっと差異が出てくるぐらいのもので、そんな問題で心を悩ますことは骨折り損のくたびれ儲け、おまけにそんなことをしていたって、ちっとも偉くはなれないのだ。(哲学的断片より)
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はい、哲学書って何でこんな難しい言い回しなんでしょうね(笑)。
19巻あるキルケゴール全集の7巻ですが、今までで一番苦戦してます。
つまり誰も手がけたことない未知の領域の研究から得られた「特殊知識」に価値があるが、誰もが知っていることは特に「知っている」と言う必要はないのです。
対立する意見で弁論する際、多くの人間は自分の意見の
「客観性」
「整合性」
を重視する。
提示した事実が如何に間違いなく、多くの人に有益かが重要視される。
だがそもそもである。
自分が主張する知識が「特殊知識」か否かは己が一番知っているのである。
特殊知識に大変価値があるならば対立する者に教えないが最も有益な勝ち方なのである。
また自分の主張する知識が「誰もが知っている知識」と自認しているならば、それを対立する相手に知らしめることこそ有益でない。
前述のキルケゴールの言うように
「誰もが知っていることを自分だけは特別なルートで獲得しただけだ」
と、誇示したいだけになる。
相手の知識の無さを、自分の力で知らしめたがっているがそんなことでは現状は変わらない。
主張も正しく、伝えかたも正しくても何故相手が変わらないのか?
「相手が馬鹿だからだ」
で済ませたら楽でしょう。
しかし、今度は馬鹿でない相手に貴方が同じ主張、同じ伝えかたで説得に成功したとしよう。
君自身は何か変わったか?
否、それは君が相手の賢さに依存した何よりの証拠ではありませんか?(笑)。
賢い相手は説き伏せれて、無知な相手は成功しないなどと、聞く相手の手柄を横取りした裸の王様に過ぎない