キルケゴールが警鐘するルネッサンスとロマンチズムに関する考察。 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「考察家が客観的になるほど、彼の考察対象への関わりは、永遠の救いの土台、つまり彼自身の永遠の救いの土台としての意義をいよいよ喪失してゆく。」(哲学的断片)

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はい、上記の文章を解説しますと、聖書を必死に研究し、万人に通じる共通項を見いだそうとするほど、「私の救い」ではなくなる。ってことです。

評論家はテレビで最もらしいことを言いますが、自分の言動は家族やプライベートに左右されません。
スポーツ中継でたくさんの視聴者がフラストレーションを感じるのは解説者に対して「お前だけの意見だろ!」って言いたくなるからであります。
しかし、「自分ならこうする」はあくまで彼個人の選択としては正しいからこそ、主観と客観のせめぎあいは続くのであります。

そういうことを言い出せば経典だろうが教典だろうが聖書だろうが、

「私の為」

には一言も書かれていないのである。
本来は読み手に託されているのだが、そこに伝道師が介在するから複雑化する
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「信ずる者のうちで最も信仰篤き者ですら、自己の永遠の救いについてそれほどの確信を持たず、ことにそれを失うはずがないという安心において、この客観性の体現者にははるかに及ばないのだ!
(中略)
キリスト教とは霊(精神)の問題である。
霊とは内面性であり、内面性とは主体性であり、そして主体性の本質は情熱である。
しかり、主体性の極到は、自己の永遠の救いに対する無限の主体的関心に貫かれた情熱である。」
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解説しますと、完全なる客観なんて存在しないと思います。
男性は男性の立場で、日本人は日本人の立場で発言、行動するし、次男は絶対的に長男としての経験が不足します。
また同じ親でも親の年齢が違います。

しかし、思惟することは出来ます。
自己の内省性を何に重きを置くかによって相容れなくとも寄り添うことは出来ます。
それが情熱であり、信仰の本質です。

数学に暗い私は専門家を前に恥ずかしいですが、近似値とか漸近線として「神」や「愛」「魂」「死」に近づけるだけです。
これを不信仰な輩が何でもかんでも「カルト宗教」で一括する無知蒙昧が「絶対はない」などと振りかざすから手に負えない。

人間は愛する人の傍に居るのみで、相手の心の中に入ったり、相手の思考の中身を覗けないからと言って愛を疑いますか?
愛する人そのものにはなれず、「近い距離」に幸せを感じる。

これぞ
「言葉の命は愛である」