「不幸な愛」とはしばしば語られるが、それは誰もがご存知の
「一緒になれない愛」
である。
太古の昔より、数々の詩人は、この「一緒になれない愛」から如何に美しい言葉を紡いだか、が功績の大半かもしれない。
しかし、忘れてはならない。
「一緒になれない愛」
よりも遥かに不幸なのは
「理解し合えない愛」
だということを。
「一緒になれない愛」は単に外的な要因、即ち時間的な制約と距離的な制約である。
しかし、これは心の寛大な者ならば笑いぐさにさえなるのだ。
だが、「理解し合えない愛」は違う。理解し合えない悲しみは、愛する者の心を撃ち、永遠の傷を負わせるからだ。
そして最も重要なことは、愛し合う両者の悲しみは、優れた者の側にあると言えるのだ。
何故ならば、その優れた者の方は相手のことが理解出来ない自分自身を早く察しているだけでなく、相手も自分を理解していないことを察しているからだ。
(キルケゴールの「哲学的断片」を独自解釈)
****
愛に優劣はないと思いたいです。
しかし、より相手を想う側が常に苦しむというのは当たっていると思います。
巷に蔓延するラノベでは、凡庸極まりない青年が唯一持ち合わせた「誠実かつ他者に献身」という美徳で複数の女子のハートを射止めるという話が溢れています。
この図式が成立するには、凡庸なる青年が決して主体的に女子の心を獲得する為に画策したり打算的行動に出たり、究極的には自身の行動と言動で決して自分を傷つけないということです。
私はブログ開設初期に
「恋に恋するはただの憧憬だろうが、愛を愛することは可能か不可能か?」
との命題を提示しました。
今日、このキルケゴールの著作を読み、答えのきっかけとなったかもしれません。
恋する相手との関係性に試行錯誤するのは当然ですが、それは「その人との関係性」に過ぎません。
しかし、愛との関係性に悩み、理解を深めない限り、いつまでも他者への反射と他者からの評価で生きる野生動物になるのではないでしょうか?
上記のキルケゴールは勿論、普遍的結論ではなく、疑問符を投げ掛けたに過ぎませんが、「愛してない方が苦しまない」であってほしくないと思うのです。
彼氏彼女への恋の仕方、愛し方に悩み昨日より今日、今日より明日のベストな選択をしたいのは当然ですが、「愛そのもの」との付き合い方を考えなければ、違う人と同じ様な別離を繰り返し続けるでしょう。
続