「エロス」についてキルケゴールを引用。 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
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まず最初に、デンマークの哲学者セーレン=オービエ=キルケゴール
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はコペンハーゲン大学の神学科卒業で、牧師の資格を持っていたという事が大事です。

「牧師」はプロテスタントです。

「神父」はカトリックです。

戒律はプロテスタントの方が一般的に緩やかです。
女性の牧師もいますし、結婚も出来ます。

はい、まずはこの前提を憶えておいてからキルケゴールの著書「誘惑者の日記」からの引用です。


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「婚約さえすれば、婚約者の愚劣さを切実に学ぶ機会に恵まれる。
神学士のハンセン君は、婚約した可愛い娘と歩き回っている。
彼が僕にうちあけるのは

「あの娘は実に可愛い娘で…。」

そんなことは、僕は前から知っている。

「まだとても若いんですよ」

これも僕も知っていることだ。

そのあとで彼は言ったものだ。

「だから僕は彼女を撰んだのです。
僕は自分で普段から僕が幻に描いていた理想の姿に、彼女を造りあげるつもりなんです」と。

なんとふざけた神学士野郎だ!!(訳者注※名誉に誓って原文ままです)

それに引き替え、この娘さんは何と健康で血色もよく快活なことか!

自然が授けてくれた「尊厳なもの」としてなければ若い娘に近づくことはないし、何よりもまず娘から学ぶのだ!

その場合、僕が娘に何らかの影響を与えたとしても、それは「僕が娘から学んだこと」を、繰り返し、繰り返し娘に与え続けることなのだ。
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以上が「誘惑者の日記」からです。

はい「エロス」とは愛欲や性欲ではありません。

「自分に足りない部分を欲しがる気持ち」

です。

必然的に男性は女性から足りない部分、持ってないモノを享受することが多く異性愛が自然な流れとなります。
プラトニックラヴを少年性愛と混同するのも間違いです。
根本は「友情の賞賛」であり、「補いあうことで成果を残す美しさ」なのです。

この辺りは説明するより「走れメロス」が教えてくれます(笑)。
これを知っていて侮蔑的な二文字を彼らに投げ掛けはしないでしょう。

「欲求」の美しさと「禁欲」の美しさはそれぞれの良さがあり、私は両立出来ると思います。

中世の「暗黒の1000年」は行き過ぎた教会支配が戒律の強さを生み、文学、科学、は停滞しました。

人が生得的に持ち合わせた知的欲求こそ、アフロディテの化身だと思います。