
デンマークのコペンハーゲン大学神学科卒業です。
著書「誘惑者の日記」の中で、牧師の言葉を引用するなんて、彼には簡単なことです。
「人をこころみに遭わすなかれ。
知らずして行う者といえども、責めをまぬがれず。
その人とても他人に対して罪科あり、その罪科は、それに倍する善行によってのみ償わるべきものなり…。」
はい、「こころみに遭わすなかれ」
は「他者の心を試すな!」
ということです。
つまり、他人が誠実か不誠実かを確かめる権利など、元来人は持ち合わせて居ないということです。
勿論、他者に選択を迫ることはことは長い人生であるでしょう。
しかし、偽りの現実を以て迫らなくて良い選択を迫り、本来は信頼に足るべき人間(だからこそ試そうという発想が持てる距離が妥当な間柄)の答えを暫定的に選別するなど、どれほど罪深いことであろうか?
私は社会に蔓延する「偽善」という言葉が好きではないが、「偽善者」と弾劾する者はもっと嫌いだ。
人間は完璧ではないと知りながら、不完全な結果や結末に「偽善」と弾劾するのは如何なものか?
貴方が振りかざす「偽善」がどれほど「善の萌芽」を摘み取っているのであろうか?
思うにこれは「安全圏からの他人を傷つけるけど自分は傷つかない攻撃」である。罪科を追求したいならば「悪人、嘘つき、無知無能」を言えばいいのである。
「それは悪いことだ」
と糾弾するには言った側の責任がある。
「本当の善ではない」
は、どれほど相手の良心に依存しているだろうか!
偽善者呼ばわりする者ほど「善とは何か?」さえわかっていないのであろう。
自分に対して聖人君子の様に振舞ってくれないだけで、どれほどの善の可能性を無駄にしているだろう?
「善人なんて居ない」
と言うことで、貴方自身が善人になれる萌芽を摘み取ってしまうことに、どれほどの悲しみを内包してるか?
それでは未熟さと幼さ故に、志しがあっても達成出来なかった少年の行為さえも偽善ではないか?
神を信じぬ者が都合の悪い時に「無条件な奇跡」を求めるのと同じだ。
自堕落な生活のツケを、懺悔室で酷解することは許されているが、ある日突然、借金が帳消しになるわけでない。
そんな場所にしか神が居ないと思う者は信仰に向いてないと言うより、生きることに向いてないのだろう。