主観と客観。
社会生活する上で、
「他者から要求される自分の虚像」
ほど自分自身を傷つけるものはないかと思います。
有能な社員であったり、従順な妻だったり、聡明な子供であったり。
期待されてプレッシャーと向き合い、自己研鑽が良い結果を生み出すことはありますが、他者が抱く自分は虚像であり、自分の理想像は自分だけの者と思います。
その主観と客観のせめぎ合いこそが生きることそのものだと思います。
また、「絶対と相対」も自分の人生を大きく傷つけます。
相対的な比較で物事を判断することは、ベターな結果はもたらすかもしれませんが、刹那的で日より見です。
有限な存在である私達人間は、完全、永遠、絶対と遭遇することなく一生を終えるでしょう。
生きていく中で唯一「絶対」の近似値と言えるのが「死」や「誕生」かもしれません。
それでも生きている内は「自分の」死に遭遇しません。他者の死すらも、「心の中に生きて~」を否定することは出来ません。
私が思うに、「絶対は絶対にない。」という人生における究極の至言は、結果に拘らず、遮二無二に突撃して絶対を求めた者だけが言える言葉と思います。
私は何度もブログ内で言及してますが、
「成長途中の若者や発展途上国の政治体制に最初から模範解答を突き付けることに私は懐疑的である。」
ということです。
年齢と経験を積み、裕福で安住の地に居る者が、
「間違ってる!」
と迷える若者を弾劾することが傲慢の罪以外何であろうか?
主観で物を言うことが悪いのではない。
「今、私は贔屓目の主観で言ってるけど~」
って客観視が必要なのです。
「絶対」を求めなければ数学の教科書も、六法全書も書けません。勿論、それも相対ですが。
で、私的見解として実験的に4つの分類をしてみました。賛否を待ちます。
主観的絶対論…。あくまで自分に勝ったリーダー、芸術家、スポーツ選手。偉業の政治家。
主観的相対論…いわゆる「大衆」。自分だけの狭い見識と狭い世界で他者との比較で喋る
客観的絶対論…学者、宗教家。万人に通じる「絶対」を求め孤高に生きる者。自分の評価よりも、自分の生み出した者が評価される。「名コーチ」と言われ、本人に華が無くとも華のある人を育てた冴えないおじさんが該当?
客観的相対論…戦後「理想」とされた社会人像。さも「大衆の総意」と言った自分を棚上げした弁論が得意。公務員、マスコミ、ネット民。