キルケゴールの著書「反復」の中で、共和制ローマの政治哲学者キケロの言葉を引用しています。
「誰が利益を得たかを調べたら、欺瞞者が見つかる」
との言葉を引用しています。
偽る、嘘を吐く、欺く、騙す。
恐らく、キリスト教文化圏は東洋以上に嘘の罪は重く、正直、誠実の美徳は高いと思います。
しかし、私は自分のブログで常々訴えていますが、真にやり遂げたい事があるなら、嘘を吐くのが武士道で、主君の為なら喜んで汚名を着るのが本物の武士です。
また、私は「正義の反対はもう一つの正義」との言葉を大変評価しています。
そして私は「善」と「正義」は別物のであると繰り返し訴えています。
「善」とはあるべき姿で、正義は善への道のりです。
正義vs正義とはあくまで手段の違いであり、あからさまな違法行為や不道徳を「正義との対立」とは思いません。なぜならば、善を目指してない行いだからです。
で、ここで問題になるのは「欺瞞」や「偽善」です。
う~ん、「偽善」って便利な言葉ですね(笑)。
行動した者に対して行動しなかった者が使う「魔法の言葉」のように(笑)。
で、「偽り」や「欺き」をすることにより、かの者が不当に利益を搾取しているなら糾弾されるべきでしょう。
しかし、己が己の自己研鑽の為の行いを「偽善」「欺瞞」と謗られるのは如何な者だろうか?
誹謗者は、訴えに足るだけの「正当な不利益」(奇妙な日本語ですが…。)と言えるのだろうか?
思うに、本物の善人(少なくとも善を目指す人間)を偽善者呼ばわりすれば己の「怠惰」に言い訳出来るからでは?
ある社会学者が言いました。
「人間はある人の成功を見て、『何故、その人が成功してるか?』の理由が理解出来れば、その人の真似をする。
しかし、その人の成功しているカラクリがわからない時は、その人の妨害をする。
そして、いじめや足を引っ張る行為は、行動に対して決して採算が取れない赤字の行為である。」
と、述べています。
また、あるブロ友さんは、正し過ぎる道徳を示されても、相手側に受け入れる準備が整ってなければいけない。
強すぎる光ほどくっきりと影を映す。
その影を受け入れる心の度量が無い者は「直すべき悪など最初からなかった。」
と、善なる歩みを止めてしまうことを指摘されてました。
なるほど、悪行よりも、善行に対して消極的なのも問題ですね。「怠惰」と「偽善」は密接なのかもしれません。