「おそれとおののき」を読み終わりました。
主題は旧約聖書の創世記22章「アブラハムが愛息イサクを生け贄に捧げる」という場面です。
物語については「旧約聖書を我流に訳す」のカテゴリー「たなく7話」をお読みくださいませ。
この時点で
「私なら『ヤハウェよ、私には無理です』という」
と述べてますが、キルケゴールに言わせれば、この選択の場合は
「倫理的解決」なのです。
勿論、キルケゴールや旧約聖書が殺人を容認してるのではありません。
ポイントは
1 ヤハウェは絶対的な神であり、アブラハムはヤハウェを信じているからこそ、お告げに背くことは地上に居場所を無くすことと考えたからです。
2 アブラハムはイサクに刃を向けるその瞬間まで、自分とヤハウェの話を妻にもイサクにも話さなかった。
身内や仲間に打ち明け、拒絶を選択することで、アブラハムは「倫理の人」になったかもしれません。
しかし、アブラハムは実行しようとしたことで「信仰の父」と後世に讃えられます。
アブラハムはダビデ、ソロモン、そしてキリストの先祖であり、ノアの子孫です。
凡人であるアブラハムは、ヤハウェを信じ抜いたことにより「信仰の父」と呼ばれるのです。
倫理は
「罰を受けて当然」
「罪を犯した者が救われなくて当然」
と言うでしょう。
しかし、それでも「救われたい」と思うアブラハムの気持ちを誰が否定出来るでしょうか?
これは先の記事のトビアとサラの物語に対する、キルケゴールの見解を読んでくださればわかるでしょう。
キルケゴールは言います。
「信ずるから救われるのではない。救われるから信じるのだ。」
と。己の罪や無力さを知ったところで、「許されない」「受けるべき罰」をどれほどの人が受け入れるだろう?
また倫理的な者を提示しようと、「私の場合」には大きく異なるのです。
3 アブラハムはイサクを愛していたからこそ苦しみ、悩み、ギリギリまで迷ったのです。
どんなに他者がアブラハムの行為を弾劾しようと、「貴方のイサク」ではないのです。
勿論、我が子と重ねる人も居るでしょう。
しかし、それでもアブラハムとイサクの関係は、ヤハウェの御前にのみ、個別に成立するのです。
芸術は欲望を捨てられない不完全性
倫理はその通り実現出来ない不可能性
信仰はいつか必ず訪れる死という不可避性を示しています。
信仰は人間のうちにある最高の情熱である。
キルケゴール続