「誇り高く、高貴な心の持ち主は、他者からの何だけは堪え忍ぶことが出来ないか?」
解答は
「同情」
です。
「憐れみの情」
は見事に正解です。
おめでとうございます。
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はい、トビア書に関するキルケゴールの見解は、悪魔アスモデウスを追い祓うトビアの英雄物語に重点が置かれているが、本当の英雄はサラの方だと述べています。
7回も花婿に先立たれても、サラは「結婚」を望んだ。
原因が悪魔憑きであろうと、サラは未婚のまま女性になることを選ばず、少女であり続けた。
男性との現実的な愛よりも神の祝福を求め信仰を貫いたサラの方が英雄であった。
と、キルケゴールは述べています。
また、
「最初から不幸な人間があるとしたら、それを癒してもらう為にはどれだけの愛が必要であるか!
愛する男にこのような危険な冒険をさせる責任を負うには、どれだけ倫理的な成熟を必要とするか!
ほかの人間に対する謙虚さがどれだけ必要なことか!
男を憎まない為にサラはどれほどの信仰が必要だったかと。」
と言っています。
サラが仮に男ならば、どんな困難を克服する英雄でも、他者の同情にだけは堪えられないとキルケゴールは述べています。
キルケゴールは
「同情はある瞬間は責めを要求するが、次の瞬間にはそれを欲しない」
と述べています。
この言葉は非常に意義深いと私は思います。
まず人は加害者の理由よりも、被害者の理由を先に考えるからです。
何故か?
人間は他人の被害を見て、自分が同じ目に遭わないように学び取ろうとするからです。
そして社会生活が出来てる限り、加害者の気持ち(動機)に同調しなくて当然です。
そして最終的に
「私は安全」
のお墨付きを得て自分の心を納得させます。
同情が理由を求めながら理由を必要としないのは、このような図式だからかと思います。
サラは同情よりも、愛情を欲していたでしょう。
しかし、それは相手(花婿)側にばかりリスクがあり、なおかつサラが幸せを求めるのは「エゴイスト」の謗りを現在では受けそうですね。
そして絶対的加害者を「悪魔アスモデウス」にしてしまうと、加害者を永遠に理解出来ない場所に設定されてしまいます。
この辺りがトビア書が「外伝」扱いとなり、神話、文学として秀逸でも、宗教的価値(信仰でありません。あくまで伝導者側からの価値)が低いと見なされた理由かもしれませんね。