「おそれとおののき」の中でキルケゴールはある状況を設定して考察を促しています。
まずは以下の設定をイメージしてください。
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ある少女(仮にA)がある男(B)に恋をしている。
しかし、お互いにまだ決定的な恋の告白をしていない。
彼女の両親は別の男(C)と結婚するように強いる(親孝行という概念が更に彼女を悩ますかもしれない)。
彼女は両親に従う。
そして自分の恋心を隠す。それは
「夫となるCを不幸にしない為であり、自分が悩んでいることを誰にも知られたくないから」である。
若者Bは愛の告白をするだけで自分の憧憬と不安な夢との対象を手にすることが出来た。
しかし、その言葉が家族への影響や全家族を破滅させるかもしれないと考える。
若者Bは自分の気持ちを隠すという気高い決心をする。
「決して少女Aに自分の気持ちを知らせてはならない。彼女が他の男によって幸福になれるようにと。」
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はい、まずはこの仮定の物語をイメージしてから、以下のキルケゴールの見解をお読みくださいませ。
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一対の人間がそれぞれの恋人に隠し事をするのは、何と気の毒であろう。
そうでなければより高い統一が生まれただろうに。
二人の隠し事は自由の行為であり、美学(※芸術、文学と訳しても良い)にも責任を負っている。
芸術は親切な思いやりのある学問である。
文学はこの物語にどんな解決を持たらすか?
文学はあらゆることを可能にする。
「偶然の助け」により、二人は互いの度量ある決心にアイコンタクトを送り、愛の告白となり、恋を成し遂げ、一緒になり、英雄の地位も手に入れる。
彼らはその決意を得る為に眠る暇さえなかったのに、文学はまるで長年の計画によって成就したように見なすからである。
対して倫理学は偶然も思いやりも知らない。文学の様な時間の超越もない。
倫理学はただ「純粋」がその範囲なのである。
倫理学はただ主人公に責任を負わす。
現実を信頼することを命じる為に、愛は告白されない。
自分が招いた恋に悩む事より、現実問題に打ち克つ勇気を持てと命じる。
倫理は「狡猾な打算」や「時期を得ない寛容さ」を否定する。
課題と解決に対する真剣さがあれば、彼らの努力は実を結ぶだろう。
しかし、倫理は彼らを助けれない。倫理は感情を害している(考慮しない)からだ。
このようにして文学は隠し事を奨励して、報いを与える。
そして倫理学は隠し事に罰与えるのである。