その後私は順次にさまざまの人を歴訪した。これにより私は他者の憎悪を招いたことを認めると同時に悲しみに憂えた。
しかしなお私は神託の意味を明らかにするために、進んで、識者の評ある人物の許に行かねばならなかいと考えた。
私の歴訪は、名のある者ほど智見を欠き、尊敬されることの少ない者ほど智見に優れていることを認めた。
この漂浪は結局、私への神託が覆らないことを明らかにしただけであった。
即ち政治家の次に私は詩人を訪問した。
今度こそ私の方が彼らより愚昧であることを指摘されるだろうと思いながら。
まず私は詩人の彼らが作品中最も苦心したと思われるところを取り上げて、それが何を意味するか聞き質した。
これは私が彼らから何かを学びたいと思ったからである。
その時、そこに居合わせた殆ど全ての人が、作者以上に作品を説明出来るのである。
かくて私は間もなく、詩人の詩作は智恵ではなく、予言者や巫女のように、自然的素質と神に依ることを悟った。
しかし、周囲の彼らもまた、作品については多くを語るが、自分が語った評論そのものには何ら説明出来ないのである。
私は彼らがその詩才故に、政治家と同じ点において、私の方が優れていることを認めて去ったのである。
最後に私は手工者の許に赴いた。
それは私ソクラテスが何も知らないことを自覚する者であるのに対し、手工者の彼らは多くの好き事を知っていると信じていたからである。
この点は確かであった。
彼らは実際に私の知らぬことを知っていた。
この点において彼らは私よりも智恵者であった。
とはいえ、アテネ市民の諸君、私には彼ら良き手工者も詩人と同じ過誤に陥っているように思えた。
彼らはその業と技芸に熟練する故に、他の事柄に対しても最大の識者であると信じていた。しかも彼らのこの誤った知見が彼らの智恵に暗影を投げていたのである。
そこで私は神託の名に自ら問うた。
自らあるがままにあるのと、彼らの如く智恵故に愚昧を併せ持ってしまうことと、どちらを選ぶか?
私は自らあるがままである姿を選んだ。
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解説を入れますと、ソクラテスは政治家、詩人、手工者を訪ねました。
そしてソクラテスの告発者はそのまま政治家(演説家)リュコン、青年詩人メレトス、製皮職人アニュトスの三人連名です。
裁判中、最も非難したのはメレトスですが、アニュトスは息子に学問をさせずに職人を継がせたことを責められた怨みがありました。(続)