再掲載:「礼」。立ち居振舞い、佇まい~物質社会のアンチテーゼを込めて~20140125 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

またこのようなことを書けば、楽天主義的な性善説信者と言われそうですが、人が人である本質を思えば、私が正しいと信ずることを書かせていただきます。

とある年配の男性の方の記事にコメントした時に、「謙虚さは必ずしも野心や傲慢さを隠す道具だけではなく、私は『自己の客観性』を知る一里塚だと思います。」

とコメントし、その方も納得して頂きました。

前回の哲学記事でも頂いたコメントに、「被害を受けた側が先に謝る古き日本文化」にブロ友のすまいるまいるさんが言及されていて嬉しかったです。

確かに「お人好し」は世界的には受け入れ難い考えかもしれませんね。

確かに私だって、自分が足を踏んでしまった方に先に謝られたら、裏があったり、騙されてたり、「後から高額な請求が~」と勘繰ってしまうかもしれません。

しかし、相手の方は自分の為に想って言ってくれたこと、との意識を持っていたいと思います。

中国から伝わった儒教文化が、八百万の神の神社神道と融合したことにより、独自の高潔な精神性を生み出した「武士道」。

旧五千円札にもなった新渡戸稲造は、自身の著書「武士道」で述べています。
****
日本に来て20年になる女性宣教師は、ある光景に非常に驚きました。
夏の炎天下、ある方が道で顔見知りの人に遭遇した時の話です。
一人は日傘を差していて、もう一人は持っていない。
するとその人は日傘を下ろして会話をしているのだ。
その真意は
『私の日傘は貴方と私の二人分の影を作ってあげられませんので、私は貴方と話してる間は不快を分かちあいます』と言った具合だ。

また、ヨーロッパの人は、厳格な「礼儀作法」の躾は思考力を奪ってしまうので非常に馬鹿馬鹿しい、と非難していることを知っています。
しかし、長年の歴史で培われた作法は、それが最も合理的で無駄が無く、煩わしい作法と思いながらも、行き着く先は、その作法が最も煩わしくないのである。
イギリス人哲学者ハーバード・スペンサーが『奥ゆかしさは最も無駄の無い立ち居振舞いである』と言っているように。
小笠原流の当主、小笠原清務が『心静かに座っている時は、暴漢さえも手出しを控える』と言っているように。作法は礼儀作法の一部分である、と孔子が言っているように。品性を守るためだけの『礼』ならば、それは貧弱な徳である。
「礼とは苦難に耐え、羨まず、自慢せず、思い上がらず、利を求めず、人に動かされず、悪事をたくらまない」