1月13日と1月15日の記事の続きです。
私が性善説をずっと唱え続けているのは、性善説そのものよりも、孟子の考え全般を敬愛しているからです。
哲学記事でも小説の中でも度々引用している
「仁は安宅、義はその正路」
という孟子の言葉が大好きだからです。
「仁」という愛や優しさや憐れみ、慈悲は、最も落ち着く「我が家」なのです。
そして「義」は「仁」という「我が家」への「帰り道」と私は思います。
以前に私は「善」はあるがままの姿で善そのもの、「正義」は「善」を取り戻す為の手段と道のりと説きました。
どうやら最後の「正義の反対はもう一つの正義」だけが一人歩きしがちですが、あくまで「善」を目指す前提の言葉ですよ(笑)。
話は戻りますが、性善説が
「ゴロゴロしてるだけで幸福が転がりこんで、野放し状態でも治安が保たれる。」
みたいな「楽天主義」と誤解されがちで悲しいです(涙)。
孟子が(そして私が)伝えたいのは、
「人は善になる可能性となる四つの萌芽を持って生まれてきた。
それを磨いて善に導かなければ曇らされてしまう。」
と言いたいのです。
四つの萌芽は四端と呼ばれ、
1 惻隠-他者の苦境を見逃せない憐みの心「仁」
2 羞悪-不正を羞恥する心「義」
3 辞譲-謙譲の心「礼」
4 是非-善悪の分別「智」
です。
これに対して荀子の性悪説は人間らしい情動も含めて「善も悪もあるよ」という主張であり決して、「どうせ生まれながら悪人なんだから、監視と矯正(強制)が必要」
ってわけではありません。
ゲーテのファウストのように人間らしい人間を礼賛することを達観した上で、性悪説を唱える方には、主張は違えども私は敬愛を示すでしょう(笑)。
しかし、大切なのは道のりそのものです。
私でさえ、答えを出して終わりにするつもりはないし、探求を続けるつもりです。
で、孟子の400年後に彼の主張を体現した者が遥か西に誕生しました。
「義とはそれを見失った人が取り戻すための道そのものである」
と言ったのはイエス=キリストです。
私は散々ユダヤとキリスト教の教義に懐疑的態度を示しましたが、「人間・イエス=キリスト」はあくまで「偉人」として尊敬しています。
簡単に電車で比喩するなら、通常ダイヤが善、雪で遅れたら悪、間引き運転や除雪車の出動などの「措置」が正義。
夏の真昼に除雪車が走ってないのも善です(笑)