でショーペンハウアーの言葉が紹介されていました。

「安定と退屈は人間に取って耐え難い苦痛である。」
との言葉を残しています。
この言葉は、誰よりもショーペンハウアーの哲学を愛した、

アドルフ・ヒトラーの人生そのものにも思えます。
ドイツ国民の為に、決して私腹を肥やすことなく、強きリーダーシップを発揮した「稀代の大凡人」アドルフ。人間臭い彼は決してナチスとイコールではありません。
(詳しくは過去記事『彼に求めた偶像、彼が求めた虚像』のカテゴリーをお読みくださいませ。)
ナチスと同盟国側の政治と哲学の流れは次回に書くとして、今日はショーペンハウアーの言葉に焦点を当てたいと思います。
インド仏教、インド哲学を習った彼は「厭世主義」とも呼ばれ、『挫折や苦悩を繰り返す絶望から逃れるのは禁欲に努めることだ。
西洋哲学に求められるのは東洋の叡知だ。」
と述べています。
アドルフもこの言葉を知っていたからこそ、ショーペンハウアーに惹かれていたのかと思うと…ますます敗戦が悲しく思えますし、戦後の市場原理主義、経済市場主義や、科学技術の発展による信仰心の欠如が余計に嘆かわしく思えます。
※過去記事に書きましたが、アドルフは白虎隊の忠義や、天皇家の伝統、豆腐の効能など、幅広く日本と東洋の歴史を賞賛し、嫌煙家の菜食主義者としても有名です。
そんなアドルフから評価を受けたショーペンハウアーですが、西洋の受けは良くありません。厭世主義は悲観主義とも捉えられ、「挫折を回避する為の禁欲は、負けるのが嫌で大会に参加しない。」みたいに競争主義と楽天主義の西洋思想に見えたかもしれません。
また、インド仏教の「輪廻」「来世」はキリスト教圏ではホントに受け入れられません。「来世の期待は現世を否定する」みたいに思われ、それがキリスト教中心の目からは「単純なマイナス思考」に見えたかもしれません。
大自然を愛する仏の教えは、大量生産、大量消費の連合国の植民地主義からは「人間の可能性を小さく押し込める窮屈なもの」に見えたかもしれません。
「読書は自分の頭ではなく、他人の頭で思索することである。」
byショーペンハウアー
客観性と「小さな人間」を重視した彼らしい言葉でしね。