
ブラッド・ピット主演の「セブン」を思い出します。
共演のモーガン・フリーマンの渋い演技以外は生理的に気持ち悪いだけの映画ですが、メッセージ性があるのは確かですね。
同じブラッド・ピットで思い出すのが
ザ・メキシカンという映画です。

その中のセリフに
「銃が人を殺すんじゃない。
退屈が人を殺すんだ。」
とのセリフがあります。
数々の映画やアニメや漫画で、数々の「悪」が描かれ、理知的な悪、美しい悪、数々のダークヒーローは主人公以上に人々を魅了しました。
私は以前の記事で、男子に対する最大級の侮蔑は
「正義の味方」と述べたことがあります。
これは関西で言う
「ええカッコしい」
です。
簡単に言えば
「優等生ブリッ子」です。
少年達はいわゆる仲間内の付き合いでこの空気を見抜き、大小あれども「不徹底な悪」を演じなければなりません。
偽善者ぶるのではなく、「偽悪者」とでも言いましょうか?
心のどこかで「バイクを盗む15才」を正しくないと思いながらも「付き合い」で悪者ぶる、不良ぶらないと教室内のポジションが確立しないカーストがあるんですよね。
あるブロ友さんは、50代の司会もする女性芸人は、妬みや批判を反らす為に「不美人」のポジションで笑いを取っている、と言われました。
女子も空間内の階層で「美しく目立つ」ことを意識的に避けての生活が要求されるようですね。
「残虐は全て弱さから生じる」
と述べたの古代ローマの政治家にして哲学者セネカです。
ディズニーアニメのポカホンタスも「勇気」「蛮勇」「卑小」「臆病」を考えさせられる作品で、「臆病」がラストに悲劇を招く結果になります。
織田信長

の一向宗門徒に対する徹底的な排除は、恐怖の裏返しとの見解がありますね。
死を恐れずに、次々と自分に向かってくる一向宗が心底怖かった。
それは虫を怖がり、闇雲に丸めた新聞紙やスリッパを振り回す少女の様にと、比喩したのは小説家の隆慶一郎先生でした。
私はどうも悪を描くと、卑劣漢になるか、美しき主張と孤高の正義を携えたダークヒーローになり、魅力を持ちながらも「滅んで当然」な悪を描けませんね。