信仰ということ | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

ブロ友さんは

「疑うことと信じることの対義」

を主張し、そのブロ友さんのブロ友さんは

「信仰は疑いの敗北」

なんて過激な虚無主義を掲げていたが、私に言わせれば、どちらも核心に迫れていない。

肯定の反対は否定だが、疑うの反対は信じるではないからだ。

「疑わない」「疑えない」の存在を無視しているからだ。

前者は信仰への不可知を、後者は同意なく服従であり、意志は背いていることを表す。

世の中には「わからない」があって当然です。
神の存在はその終着点に相応しいくらい永遠のテーマでしょう。
しかし、こうは思えませんか?
科学や芸術や文学、スポーツは常に「わからない」と対峙し続けることなのです。
自分の明日がわからない人間が、何を以て無神論を唱えることが出来ようか?

明日の未来を全て言い当てた上で「神は居ない」と言ってほしいものです。

せめて、「居たとしても知覚できる術を持てない」
くらいは言ってほしいものです。

「魚は海を認識しない」

「日本の蟻とアフリカの蟻は出会わずに一生を終える。」

ですから(笑)。

まぁ、ネックになってるのは、神=意志と人間への積極的関与をする「人格神」を連想するから問題を複雑にするんですよね。

未知なるものへ可能性を賭する気持ちは誰だって持ってるし、試合やテストや仕事で良い結果を期待するのは命ある者として当然だと思います。

だから私はカール・ヤスパースの「包括者」と言う表現が好きです。
それは人格神ではなく、大宇宙の「法則」そのものです。「理」と書いて「ことわり」と読む世界です。
万有引力により物は上から下に落ちますが、その逆はありえない。
だが大気圏外では例に当てはまらない。

生命もこれと同じで、生まれてきたことは元に戻らず、若返ることも昨日に戻ることもない法則に従って生きること。
その「規則性そのもの」が「包括者」なのです。

自己の自惚れを戒め、日々万物に感謝し、未来を信じ、英霊の冥福を祈る。
これが神の仲介なく、個人の「努力」「頑張り」だけで成せることでしょうか?

私は言いたい。

「無神論者は今後二度と『ラッキー』などと口にするなと。」
まず自分が有限の存在であることを知り、
有限の存在である自分の限界を知り、有限の存在である故に得た幸福に感謝すること。
それは宗教でも哲学でもありません。

「信仰とは善き未来を望むこと。」

by SPA-k