心はどこから来てどこへ行くのか | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

表題の件をブロ友さから問われ、誠心誠意お答えしようと思います。

心はheart
精神はmindといいます。
「マインドコントロール」
と言って他人を支配する言葉に使ったりしますが、この言葉には
「意識下の精神までしか支配出来ない」
との「心」への畏怖が含まれていると思います。

前回の記事で書いた通り、人間は「意識下の勢力範囲」は「大脳」のみです。
小脳、延髄、中脳を人間は大脳で命令してもコントロール出来ません。

心臓は止められません。
眼球運動や回転や傾きは無意識に私達をサポートしてくれて、一々命令を出しません。

つまり人間は自分の肉体の「わからない部分」と一生付き合っていかなければならないのです。

で、「心はどこから来た?」

ですが、独自の解釈をさせて頂くと心の移り変わりは「魂」と密接に関わってると思います。

soulとの言葉があるように、やはり魂と心は別との考えがあるのだと思います。

私は魂は必ずしも「透明の肉体」と「天使の輪」では無いと思います(笑)。
ましてや、広義のゴーストや幽体離脱とは分けて考えています(笑)。

私は「魂」を「心」が物理的に外界に作用する時に具現化した形。

と思います。

心は心である限り、内にあるもので、何か具体的な力は発動すれば「魂」と私は呼びたいです。

「九十九神」との言葉があります。
道具の神様や物に宿る神様。

芸術家は「心を込めて」とか「魂を込めて」と言います。

「命を吹き込む」とか「魂を吹き込む」と言いますが、「心を吹き込む」とは言いません。
作品に「命が宿る」「魂が宿る」と言いますが「心」はどうやら「宿る」ものでは無い気がします。
また、魂や命は「エネルギー」的な「量」を感じます。

「心はどこから来てどこへ行くのか?」


「心は、心在る者が自らの魂を割くことによってのみ、同じく心在る場所へ移り行く。」
by SPA-k

はい、この言葉が絶対でも完璧でもありません。

考えるよりも感じて下さいませ(笑)。

何年後かには、私自身がこの言葉を笑いとばしてるやもしれませんから。

哲学者は自分の人生から逃げません。

作品を後世に残すことでも前代を否定することが大切なのではありません。
自己自身と向き合い、自己の哲学を自らの魂で体現することです。
キルケゴールはそのように生きました。
美辞麗句を綴り、酒と女性に溺れる様な人は敬愛出来ません。