「人は一人分の真実しか持ち合わせていない」 byアリストテレス
「自分が歩みだした時に初めて世界は創造される」
「人は見たい物を、見たいように、見たいだけ見ている」
byキルケゴール
「魚は海を認識しない」byカミュ
「どれほどご立派な言葉を並べようと、どれだけ正しい論理を展開しようと、貴方は他人の頭の中に入れない。
他人は貴方の心に入り、直接会話をすることは出来ない。」
by SPA-k
過去の賢人と私の言葉を並記させていただきましたが、あるブロ友さんはネット社会の発達が人が抱く真実に変化をもたらす可能性を示唆していました。
つまり
「神の概念の降臨」
をネットの中に可能性を見出だすことが出来るかも、と非常にユニークな主張をされてました。
ネットで個々の心情を書き込み、多数の人間が閲覧する。
今までは会話しない人や知らない人、そして会話をしても心情を吐露しない人の心に飛び込むことは出来ませんでした。
しかし、電話や手紙以上に相手の心に飛び込みやすいネットによって、最大公約数的な、共通概念の「神」=絶対ではないが有限最高値の真実を定義出来るかもしれない。
とのことです。
勿論、「総和の神」や断片的に足し算された真実は絶対ではありませんし、人間は人間が生きる「枠組みの外」に出ることは決して出来ません。
認識出来ない範囲にも神は居ますが、「居る」と確信を持てるのは認識の範囲内です(混乱させる書き方で申し訳ございません)
で、長々と何が言いたいかと言えば、ネットで何かを語るに辺り、「完全なる良識」が勝手に定義されるのも危険だなと思うのです。
自分の内だけでは完璧に正しい真実も、見られることを前提としたネットでは、それを読む他人には必ずしも真実では無いという事実が待ち受けているのです。
ある意味「善人ファシズム」が横行するのでは?と危惧しています。
ニュースやネットで最近、知識人や著名人の行き過ぎた発言を「想像力の欠如」で片付ける風潮が逆に怖いです。
確かに完全に角が立たず、万人に受け入れられる言葉をネットで配信しようとすれば、自分の本当の気持ちは紙ベースの日記に記すのがベストとなるかもしれません。
そしていずれネット社会は厳格で厳粛な「仮面舞踏会」になるかもしれません。
また別のブロ友さんは言われました。
「貴方が選択しなかった側の経験は、昼間でも星は光っていると意識しなさい」
と。