『誘惑者の日記』を我流に訳す 5 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

第五話 「その名はコーデリア」


僕は先回りに成功した。
何くわぬ顔で家人に挨拶し、彼女が訪れるのを待つ。

見た!彼女を確かに見た。
家の窓の外の向こうに彼女の姿を。

だが彼女はこの家を訪れない!
既に突堤の端まで行っている。

僕は彼女がこの町の人間で無く、夏の間この町に居住してるのでは?と思った。
今を逃してはいけないと、すぐさまこの家を出ようとする。
しかし、急ぐ僕は腕を婦人にぶつけてしまい、淹れてくれたお茶をこぼしてしまった。

僕は旧約聖書にならい、
※「カインのごとく、われ、この場を逃れん。ここには茶水ながされたり。」

と詩歌に乗せて言った。
ただその場を退散したかっただけだ。
だが主人は僕の洒落の後の句をつけ、
※「汝は自ら一杯の茶を飲みほし、さらに自ら婦人らにこぼれたる茶水の代わりを供し、しかして一切を旧に復せしむるにさらざれば、行くをえざるべし」
と。

彼が僕を引き留めるには暴力め辞さない形勢なのを見れば、僕は居残るしかなかった。
彼女は姿を消した。

二度も彼女を見失ったが、それさえも喜ばしいと僕は思っている。
理想と現実の間に彼女の面影を思い浮かべることが出来るのだから。
完全に現実の彼女を思い浮かべることに成功した時、僕は再び恋をする。
恋をすることと、恋をしていることを知るのは別物なのだ。
若き男よ!「自らの手腕、眼力、勝利に確信が持てないならば今すぐに攻撃を敢行せよ!」と僕は忠告する。
享楽とは何が魅力的かを決定するかでは無く、何に興味を持っているかを知ることだ。それが享楽なのだ。
恋人を「所有」していることなどと僕には何の価値もない。
だが世の中の男は金銭と権力から離れて恋人に献身することを知らない。
献身により(勿論、一方的な献身であり見返りを求めない献身である)恋人は美しくなるのであり、真の献身が必要とするのは叡知である。
彼女を見失って4日後、通りで二人の女性が彼女の名前を呼んだ。

「コーデリア」

僕は聞いた。
彼女の名前を。

恋がひとつの贈り物ならば僕は神々の寵児だ。(続く)



※カインが兄弟のアベルを殺し、その血で大地を汚したように、僕はこの場から立ち去ります。

※君は自分のお茶を飲みほし、自ら婦人らにこぼれたお茶の代わりを淹れて回り、全てを元に戻すまでは行くことを許さない。

注・作中でキルケゴールは自らをヨハンネスと名乗りレギーネはコーデリアです。