
は著書「誘惑者の日記」において、自らを「哲学者」と名乗っておりません。
「耽美家で恋愛学者」と表現しています。
恋愛学者=はエロティカーから訳されていますが、哲学用語における「エロス」は「自分に足りないモノを欲する気持ち」とされています。
つまり、不足してるから学びたいと思い、他者を素晴らしいと認めるから惹かれるのであり、その欲求が善の方向に向かう。
これ即ち「知恵を愛する」=フィロソヒィア=哲学の基本です。
愛と学問に共通するモノを両輪で進み続けるのが哲学であり、愛の名の下に学問の可能性を制限する宗教じみたものでも、知恵を絞って「愛の定義」を試みて「世の中をわかった気になる」ものでもないということです。
SPA-k哲学では「人間らしさの学問」と言いたいですね(笑)。
で、前置きが長すぎですが、再開一回目は上記の「誘惑者の日記」より
「およそ毒にも薬にもならない書物を朗読して読み聴かせるのは、若い娘との親善関係を固めるのに非常によい方法である。」
との言葉を残しています。
注意すべきは19世紀半ばの著書ってことです。
テレビに携帯、インターネットも映画もありません。
そんな中で文学を共有する大切さは想像に容易いでしょう。
しかし、面白いのは「毒にも薬にもならない書物」です。
情報が溢れる現代では「毒」の可能性がある書物やメディア媒体は列挙にいとまがないのは言うまでもなく、そのようなものが若い男女の親善に悪影響をもたらすのは当然でしょう。
しかし、「薬」とは?
薬となる書物は男女の親善に悪影響なのでしょうか?
私見では立派すぎる「薬な書物」は若い娘の興味が「書物そのもの」に向いてしまうことや、高尚すぎる書物は自身が把握しきれない。
との可能性を考えました(笑)。
皆様の豊かな毎日に貢献できたら幸せです。