学義論8 性善説 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

私は胸を張って言う。

それが私の生きざまであり、哲学だからだ。

「人は生まれながらに善だ。」

と何度でも主張しよう。


こんな時代にただのロマン主義か、平和ボケした日本人の戯言と思うかもしれません。

しかし、私は性善説を唱えます。

「性善説」という言葉を貶めたのは、数年前の、政治家や報道機関が「定額給付金」の不正受給に対して、
「性善説に基づいて調査と支給を~」
との発言が取り上げられたことだ。

これにより「性善説」の誤った認識が広がったかもしれません。
いえ、この報道に関係なく、
「人は法による規制と権力による罰則を設けなければ悪を為す。」
と考える方が多数居ると思います。
いわゆる「性悪説」であり、「夜警国家」の基本を成す考えです。

夜警国家とは、
「完全に野放しな自由社会では犯罪が多発し、却って人々の自由が損なわれる社会になる。」
との考えです。

イギリスの哲学者ロックはそれを発展させ、「市民による権力者への信託統治」を訴えました。

しかし、私はここに疑問を持ちます。

完全に野放しで自由でも、人は悪事を働くとは限らない。
と思うからです。


人間は生まれながらにして悪、もしくは白紙だから、善に導く環境や教育や体験が必要と多くの方が主張するかもしれません。

しかし、その考えは人が生まれながらにして持ち合わせた善意を一度失わさせて、既成の教育により多数派が考える善行を押し付けられてるように思えてなりません。


悪意や悪行は関係性から成り立ちます。
世界にただ一人では悪は成立しませんが、世界にただ一人でも本来、善は成立します。
それは貴方が存在していること、それが善だからです。

なぜならば犬や猫は子育てを勉強しません。
教わらなくても愛情を持って我が子を育てるその姿が善以外に何であろうか?


私達は「多数が求める理想的な誰か」になれない限り悪と思い過ぎていませんか?

真の性善説は人の能力の不可能性、理念、道徳の不完全性、死の不可避性を認めた上で、有限の人生を自分と向き合い、先天的な善に触れることです。

大事な事は二度言います。

「人は生まれながらにして善です。」

「私は性善説を主張します。」

善人とは全く悪事を働かない人ではありません。
善行のみを繰り返す人でもありません。
己を知っている人であり、足るを知る人です。

そして今現在、存在する自分を認めた人です。