ヤスパースの著書「哲学」から引用します。
「自由とはある拘束に対する『抵抗』であり、『法則』であり『根源』である。」
と述べています。
つまり、自由とは「自由ではない」ということを認識した時に思い描かれるのである。
それは不自由からの抵抗です。
独立戦争であり、奴隷解放です。
自由は時間と空間の制限を受ける範囲での自由です。
一時間の自由時間は一時間という有限で相対的な自由です。
そこには自由を与えた者と与えられた者の関係性に拘束され、与えた者もまた別の何かに拘束を受けます。
これが自由とは法則ということです。
決して規則性からの脱出は出来ないということです。
そして論理と現実を超越し、内的に思い描かれるだけの完全に無制約な自由があります。
それが自由とは根源ということです。
「本来的な自由など存在しない。」
と主張する人や宗教はこの「絶対的自由」を狡猾に利用します。
喩えるならば、高い所から飛び降りて、重力に逆らい上昇することはあり得ない。
とのことです。
檻の中だけを自由に動けることと、檻の外に出た自由があります。
檻の外に出てしまえば、また別の拘束が発生するだけです。
しかし、中に居る者が外を思い描くことと、最初から外に居る者と認識が違って当然なのです。
突然、檻の外に自分の存在が瞬間移動することはあり得ないのです。
概念的にのみ存在する「絶対的自由」に煽動されてはいけません。
またヤスパースは、
「自由は対立を伴わない所では空虚であり、対立するものの中で過程として存在する。
自由は到達(完成)されたものの中に留まることはできない。
自由は現象の中にあり、神や自然の中にない。」
と述べています。
そう、万能の神が存在し絶対的な自由を所有しているならば、それは絶対的な孤独であり、絶対的な不自由だと思います。
「身の程を知る」は低姿勢とか卑屈ではなく、「足るを知る」だと思います。