自由 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

ヤスパースの著書「哲学」から引用します。

「自由とはある拘束に対する『抵抗』であり、『法則』であり『根源』である。」

と述べています。

つまり、自由とは「自由ではない」ということを認識した時に思い描かれるのである。

それは不自由からの抵抗です。

独立戦争であり、奴隷解放です。

自由は時間と空間の制限を受ける範囲での自由です。

一時間の自由時間は一時間という有限で相対的な自由です。

そこには自由を与えた者と与えられた者の関係性に拘束され、与えた者もまた別の何かに拘束を受けます。

これが自由とは法則ということです。
決して規則性からの脱出は出来ないということです。


そして論理と現実を超越し、内的に思い描かれるだけの完全に無制約な自由があります。

それが自由とは根源ということです。


「本来的な自由など存在しない。」

と主張する人や宗教はこの「絶対的自由」を狡猾に利用します。

喩えるならば、高い所から飛び降りて、重力に逆らい上昇することはあり得ない。
とのことです。

檻の中だけを自由に動けることと、檻の外に出た自由があります。

檻の外に出てしまえば、また別の拘束が発生するだけです。
しかし、中に居る者が外を思い描くことと、最初から外に居る者と認識が違って当然なのです。

突然、檻の外に自分の存在が瞬間移動することはあり得ないのです。

概念的にのみ存在する「絶対的自由」に煽動されてはいけません。

またヤスパースは、

「自由は対立を伴わない所では空虚であり、対立するものの中で過程として存在する。

自由は到達(完成)されたものの中に留まることはできない。

自由は現象の中にあり、神や自然の中にない。」

と述べています。


そう、万能の神が存在し絶対的な自由を所有しているならば、それは絶対的な孤独であり、絶対的な不自由だと思います。

「身の程を知る」は低姿勢とか卑屈ではなく、「足るを知る」だと思います。