久しぶりのヤスパースです。
タイトル通り、コミュニケーションを不可能にしてしまう行動、言動パターン三例を紹介します。
1 「石化した客観性」のうちに生きる人間は、他人に由来するものをすべて口先でやりすごし、非人格的におしゃべりするか、独断的な信条を述べるだけである。
2 「固定した道徳観」は行動するよりも、他者を評価し、他者の評価を要求する。
このような人間は倫理的な行為を、本能や衝動と混合しているのである。
このような人間は根源的な生を経験せず、悲壮感で全ての結果を基礎づけたがる。
3 「ワガママな傲慢」は自身の存在しか認めない。
世界を自分と同一化したがる。
好奇心から他者に入りこもうとするが、このような人間は自分の弱さを開示せず、また他者の弱さに決して耐え切れない。
以上が交わりを持つことが不可能な人間です。
私にはどれも耳が痛いです(笑)。
1と2はやはり
「変化しないこと」
が問題なんですかね。
「この答えが絶体で間違いない。」
と思った時から心は固定化し、石化するのでしょうか。
3は裏返せば、自分の中に他者を認めることにより自分の弱さも他者の弱さも受け入れられる強さを持てるのだと逆に元気をもらいました(笑)。
特に私は
「衝動的な倫理観」
に振り回されないように気をつけたいです。
この世に絶体はありません。
「かもしれない。」
という形で異論の余地を自分にも相手にも残す寛容さが必要かもしれませんね。
デカルトの様に
「疑えないのは疑っているという自分だけ」
は行き過ぎかもしなませんが、
「ソフィーの世界」
では
人間は生きていく為の必須条件として
「哲学の問いかけに対する答え」
を挙げています。
哲学ではありません。哲学者でもありません。哲学的な問いかけでもありません。
その答えなのです。
それは熱心な信仰者でも、無宗教を名乗る人も同じです。
皆、自覚してないだけで何かしらの不変的な答えを持って生きているのです。
しかし、それは暫定的で照らされた光の影法師しか見ることは出来ないのです。
本当の哲学者ほど名言、箴言(しんげん)、格言を提示しながらその言葉に最も真摯で謙虚だったかもしれませんね。
読者さまの豊かな1日をお祈りしています。