ヤスパースの「哲学」を読む3 理性が捉えきれる範囲 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「客観化された自己の実存は、多義的な様相となる。」

わからんわ!(笑)

あ~こうゆう書き方するから哲学書も哲学者も哲学も敬遠されねんなぁ~。

つまり、誰にでも共通する「私」を説明しようとすれば、受け取る相手によって、いろいろな意味を持つ「私」になる。って当たり前のことです(笑)。

親から見たら子供、祖父母から見たら孫、先生から見たら生徒、他人から見たら他人ってのと同じです。

また、美術のスケッチでモデルをぐるり一周とり囲むように団体でスケッチしたら、出来上がった絵は正面、側面、背面を描いた絵が完成さるます。
紙に描かれた絵は全部違う絵ですが、同じモデルを描いています。
モデルを知っているから、同じ絵だと脳は合理的に判断しますが、それぞれの絵を統合してもモデルにはなりません。
「こんなイメージかな?」
と全体像を頭で描くだけです。

つまり自分を説明出来るのは自分だけで、説明を受けた人間は相手の断片しか知ることは出来ないと言うことです。

また、ヤスパースは言葉で説明するに当たり、
「自由、選択、決断、決意、確証、忠誠、運命」
などの言葉は定義しようとして、定義してしまえば意味を保持出来なくなる。

と述べています。

上記の言葉も主観的に捉えるだけで、万人に共通の物差しとならない。
ってことです。

この世は貴方が見たいように見ている世界

と同じくらい大切なのが、

他人の頭(心)の中に入れないです。
どんなに表情や言葉や態度で示しても、相手の心と直接会話は出来ません。

だからこそ言葉には誠実があるのです。
また、心は自分で思っている以上に不安定です。
だからこそ不完全ながらも何らかの態度を示すことが必要なのです。

人は他者や自分を騙す為にのみ嘘をつくのではありません。
本当に心に対して永遠に忠実ならば、一貫性の無い無責任な行動を取るでしょう。
そこに知性よる合理的判断となる言葉を「嘘」と言えるでしょうか?

難しくなりましたが、「心の声」がスピーカーになって万人に丸聞こえだったら生きていけないってことです(笑)。