ヤスパースの「哲学」を読む2 自由 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「客観的に思索されるのは自由では無く、依存である。」

「真の自由とは自由と依存がひとつになることである。」

とヤスパースは自身の著書「哲学」の中で述べています。

数々の賢者が「自由」を定義しようと試みました。
その度に立ちはだかったのが
「枠組み」
です。

完全に自由な人間を定義しようとすれば必ず
「自由など存在しない。人は社会、家族、時間(過去と未来)の枠組みから逃れられない。
それらを含めて自分が存在するからだ。」

との反論が必ず出るからです。

だからこそヤスパースの
「客観的に認識されるのは依存である。」
なのです。
共通に誰しもに当てはまるのは依存が作り出す
「自由ではない」
と言う反証によって「自由がある」
が「仮に」定義されているだけなのです。

「赤ちゃんは自由でいいな」
とは誰しもが思ったことでしょう。
確かに学校、会社、社会の枠組みを持たない赤ちゃんは自由でしょう。
しかし、赤ちゃんの自由は
「母親に依存する」
なのです。
そして共通に認識されるのは母親との関係性のみなのです。
また、「自由を標榜」すれば、
「じゃあ、犯罪の自由はあるのか?」
「権利を侵害する自由はあるのか?」
と言ってくる輩がいますが、その意見の時点で「法」や「社会」に依存した意見なのです。
法が無くとも人は犯罪を犯すとは限りません。
人は合理的判断で、他者を侵害するリスクの大きさを計算し、お互いのために協力する所は協力し、干渉しない所は干渉しないのが生存に有利と言うことを自然に知っているのです。
刑務所で殺人犯同士が殺し合いをしますか?しませんよね?
それは刑務所がそれを成立させない社会の枠組みで、理に叶わないからです。

以上、

自由とは「自由でない」を知ることによって仮に抱かれる相対的なイメージで、人間は社会の関係性を断ち切ることは出来ない。しかし、真に自由を持ち合わせた人間は枠組みを認識せず、枠組みをはみ出さない人間。
ってことになります。

ルールをルールと一々認識しなくても、自然にルールを守れている人が一番自由ってことです。

限界は確かにある。しかし、その範囲で慌てず、騒がず、傷つけず。

これ即ち
「足るを知る」
に通じると私は思います。